降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

充実の裏返しとしての根源的苦しみ 救い

先の投稿、一度に一通り書こうと思ったけれど、書けなかったところも多かったので補足。

 

自分が生きていくという時に、力が弱いように感じていた。社会に放り出されたところでまるで生きていける気はしなかった。根性も能力も何もないが、自分を動かすもの、世界と関わり状況を開いていける力は何かと探した。その結果、根源的苦しみに対する自律的な反発の力を使うのが妥当だという認識になった。

臨床心理学の学生の卒論を見ていると、どうやらだいたい自分の問題について書いているように見えた。自分が自分の問題を書いているとは思ってないようでも、他人としての僕からみればそうに見えた。ちゃんと選んでいる、と。

 

卒論は学部生にとって、学生生活のなかで最も作業量の多い課題で、ある程度のクオリティを求められる。そしてそれは自分の作品でもある。この課題を遂行するためには、最も関心のあること、追究したいことを書かざるをえなくなる。雑学を楽しむ程度の興味関心、一時的に刺激を受けるものぐらいでは続かないのだ。

 

すると、自分が根源的に苦しんでいるものを乗り越える方法やあり方に関わるところを選ぶ。まっすぐにその苦しみのコアに向かえなくても、その苦しみを乗り越える可能性を持つものに強く興味をひかれ、衛星のようにその周辺をぐるぐるまわる。

 

苦しみがあっても、それを解決するために自分の現在の秩序を壊す抵抗は強い。見たり聞いたりした範囲では、多くの場合、事故的なアクシデントがあり、もはや現在の秩序がどうにも成り立たないという状況になってからより根源的な苦しみへの向き合いをはじめる。今までのあり方は成り立たないというのは、状況的なこともあるし、自分として今まで与えられて我慢(と思ってないかもしれないが。)してきたものではまるで割に合わなくなる。それでは救われなくなる。

そこまで行かなくても、結局自分としての充実を感じるのは、自分ならではの苦しみの裏返しなのだ。もともと潜在的に苦しくなければ、さして深い充実や面白みも感じない。「やりたいこと」とは潜在的、根源的な苦しみを乗り越えるプロセスを与えてくれるもののことだ。

 

自己実現」などというと生きづらくもない平均的な人が意思を持ってステップアップしていくみたいなイメージがある。自己実現というピラミッドの頂点に向かうような。だが、人間は先に安定を与えられると生きものとしてそこから動けない。必要がないのにあえてリスクを冒す生きものはいない。たとえ底に苦しみをかかえ、歪つになっていたとしても。

 

むしろ既に生きづらい状況があること、変わらざるをえない状況にあること、たとえとしての「貧しき人」であるような状況でこそ、根源的な苦しみを発見しやすい。どのような状況にあっても、より根源的な苦しみを発見することによって、その状況を抜けていく力が得られる。なぜなら根源的な苦しみの方が、その場当たりの状況よりも苦しいからだ。体は無意識にその根源的な苦しみを乗り換えるための反発力を活性化させており、その力、動機を利用するのがサバイバルのあり方として妥当だ。

表面的に浮き上がってくる苦しみの下にそれらをそもそも苦しみとして感じさせるような苦しみがある。鶴見俊輔はそれを「親問題」と呼ぶそうだ。実在の親の話しではなく、自分が生きるにあたって受ける苦しみを派生させるそもそもの根源のようなもの。ただ、その根源的苦しみ自体を発見しようとするよりも、何が最も充実かと探究する方がやりやすいかもしれない。最も深い充実をもたらすものの裏に根源的な苦しみがあるので、同じことだ。根源的苦しみは生を圧倒しているにも関わらず、直接的には感じにくい。


根源的な苦しみに向き合う時、人間はその場の状況や安定を脱していく動機と力を持つ。状況に反逆し、世間的には「不遇」と言われるような状況に陥ったとしても、満足感は深く、力は減じない。生きる力の本質は、生体レベルから生まれる反発力だ。屋久島の巨大な杉は、多雨に支えられながら、根を張るのが難しい岩盤に対してそれでもなお生きようと根を伸ばす反発力によって生まれている。その巨大さは苦しみの大きさと危機の裏返しだ。一方、豊穣な土壌では杉は屋久島ほど大きくなれず、途中で腐るそうだ。このことは人において大きな成果や達成というようなものが、ただ手放しに賞賛されるようなものではないことも示唆する。そのような態度は欺瞞的で搾取そのものだ。

畑などでは、この反発力を使って収穫物を多くする。わざとトウ立ちが遅れるタイミングでタネを蒔いたり、シシトウ、キュウリなどは、実が成熟する前に収穫する。そうすることによって、株自体がより大きくなったり、長い期間収穫ができる。

人間以外のものに対しては搾取をやっているのに、人間に対してはやるなというのは手前勝手な理屈だが、これはサバイバルをやめたいという願いが強いことを示している。生きものなのにサバイバルをやめる。「合理性」が支配するサバイバルの世界には救いがない。そこでは人の心は自己更新していけない。

強くなければ生きていけない。しかし、優しくなければ、生は、生きるに見合うほどのものでもない。これが人間が文化をつくってきた実感なのだと思う。優しくあることは、サバイバルが支配するこの世界に反逆することだ。その反逆のなかに優しさと自由がある。

生きものでありながら、サバイバルに反逆する。これは生きる苦しみを終わらせるということだ。だから永続的な発展などは、そもそも人間否定なのだ。極言するなら、たとえ滅んだとしても、生の苦しみを生のなかで終わらせることより重要なことはない。それ以外のものが重要になるとき、誰かが抑圧されていく。生きるに見合わない状況にされていくのだ。サバイバルの理屈は、それを良しとする。

僕は自分が充実することをやっていく。それは達成や到達に向けたものではない。この過程にあることが、回復していくことであり、救われていることであると思う。救いのなかにいること、その上でサバイバルという演劇をやっていくこと。それ以外にできることはなく、やる必要もない。