降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

自給ということ

昨日、畑にニンジンをまきに行った。
だが通路の草が伸びていたので気になり、そちらを先に刈った。

ニンジンをまかなければと思いながら、草結構あるな、やらねばと思って少し焦燥する心持ちになった。

 

その時ふと、自分の外部にある畑をやらなければいけないと思っているが、実際には自分の気持ちを整えているのだと思った。草が気になるから草を刈る。野菜が欲しいからタネをまく。畑をやるというと自分の外のことのようだが、自分の気持ちを整えているだけだ。

ニンジンをやらなければ、と焦燥するのは気持ちの整えとは逆方向だ。気持ちを整えるためにやっているのに、とんだ本末転倒だなと思った。少しでも整えることをやっていくだけだ。できないことはできないのだから、自分の外の条件を基準にするのではなく、気持ちの方を基準にしようと思った。

音楽家の野村誠さんの30センチ理論が一年前ぐらいの京都新聞に紹介されていた。部屋を全部片付けようとするとやる気がおきず、無理にやろうとしてできなかったら挫折感がある。そこでどんな時も30cm四方だけ綺麗にすると野村さんは設定した。

 

すると、どんなしんどい時でも30cmはできる。さらには30cmだけできたら、もうちょっとやりたくなる場合も多い。結果として部屋は綺麗に片付くようになっていった。


気持ちの運用だ。整えると満足感があり、やりたいことが出てきて弾みがつく。ここでまたやりすぎると燃え尽きるのだが、完璧にやろうとか、アタマの囁きにそそのかされず、気持ちと程よくつき合う。一口で食べれることをやる。タスクを一口サイズにまで細かくしてやる。するとできる。この繰り返しは有効だろう。

アタマはすぐ全部とか、完璧とか、一口サイズ以上のものを設定して高揚しようとする。その傾向に注意深く。色気を出さない。

アタマとの付き合いとは、言葉との付き合いだと思う。全部とか、1週間とか、そういう過剰な概念。それに負けてしまう。踏破は存在しなくて、一歩一歩だけがあるのだ。


大地の再生講座の考え方で日々をみたらどうなるだろうかとやってみている。大地の再生講座では、空気や水の流れなど自律的に動き循環するものを利用する。人間が全部やってしまわない。空気や水の流れは何度でも循環し、その循環がまた地形を変える。だから、人間はその循環がより進むように少し手助けする。すると循環が仕事をやってくれる。

 

空気の流れを作るために、移植ゴテで2cmの深さの溝を掘る。それだけでいい。2cmの溝でもそこに空気と水の流れがおきるので、1週間後のその溝の土は気の通りがよくなり柔らかくなっている。柔らかくなれば、また少し手助けする。この繰り返しにおいては、自然の力の方が多く仕事をしてくれる。楽しみでもある。

 

自意識が全部やるというのは、その見方をした瞬間に高揚するが、それで終わる。その高揚では持たない。ドラッグのように後でその高揚の代償として疲弊がくる。やる気がなくなる。エネルギーの浪費になる。エネルギーは運用するものであり、生きているとはそういうことだと思う。車にガソリンを入れるような感じではない。ガソリンの分だけ走って終わりというあり方では疲弊がやってくる。運用でなければ割に合わない。

 

気持ちの整えを自給しようと考える。食べ物の自給も結局は心持ちの整えだと思う。よって心持ちの整えをすすめていくことが自給の目的であるだろう。

現在は完治しているが、思春期にハンセン病を患った女性が施設の外のどら焼き屋で働こうしようとする河瀬直美監督の映画「あん」を友人にかしてもらってみた。

 

世間の無理解は、結局彼女を働けなくした。何かのマイノリティが自分の生存中に世間は変わらない場合も多いだろう。だから心持ちの整えを、社会変革の達成によって得ようとするのは妥当な設定ではないと思う。社会変革的なことも視野にいれるが、たとえ社会が変わらなくても心持ちの整えがすすむことをやっていく。僕はそれが心のサバイバルだと思っている。

今やっている当事者研究の集まりのようなお話し会やちいさな催しは、具体的に感じられる自分の周りの環境を変え、育てながら、心持ちの整えをすすめていく手段であり、同時にそれは目的でもある。

自分の外に目標を設定しても、外のものは結局自分の裁量の外にある。どんなに作物作りが上手くなっても、土地の所有やら天気やら、自分の体調やらが関わってくれば、できないものはできない。だが自分の心持ちの整えならいついかなる時にもやっていけるのだ。

 

それはマイナスになったものをその度にゼロに戻すようなことではない。心持ちの整えは、心の更新をおこす。その更新がおこるとき、世界はまた新しく体験される。その更新は、整えの作業に対して割に合うものなのだ。