降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

過大な課題 「成長」から「培い」へ

イリイチフレイレの対話の翻訳者の方と偶然お会いする。
 
その方はフレイレの著作の中で多用される「意識化」という言葉に抵抗を感じていって非言語や身体の方へ向かったそう。
 
確かに、西洋近代が拡張してきた資本主義社会の文脈において抑圧される側である一個人、一労働者としての自分を知り、運動していくことによって自らの状況を変えていくサバイバルの意義はもはや否定できないものであると思う。
 
一方で、個々の自意識がより意識化し、より獲得し成長していくという考え方には強迫性のようなものも感じる。自意識自体は有機的なものであるより、機械的なものであると僕は考えているけれど、そこに獲得され蓄積されていくものもまた機械的な、融通の効かない同じパターン、周りとの有機的な関係性を伴えずにカチカチに固まっていく秩序をもたらす傾向があると思う。
 
いわゆる民主主義的な運動のようなところにおいても、本来価値ある理念を持って運動や活動していても、なぜか他者を批判し、排除しだし、組織内でも抑圧が進むといったことがおこると思う。これはもしかしたら自意識のその身の丈に対して、意識化と成長という過大な課題を押し付けてしまった限界が露呈しているところもあるのではないかとも思える。
 
身体教育研究所の野口裕之さんは、お茶の急須は柄を握る時に小指が余る(握れない)ように設計されており、野口さんはその意図を小指が柄を握らないことによって、微妙な腰の反りが生まれ、日本人はその身体的・精神的感覚を良しとすると述べていた。

身体教育研究所

http://keikojo.com/koukaikouwa_schedule_files/1993_doho_to_naikan.pdf

 
しかし、そういった微妙な身体感覚のコントロールやそれをもとにした道具の設計は、言葉として言語化や文章化されていなかっただろうと思う。いわゆるフレイレのいう意識化はされていないのに共有されている。身体が自然とそれを良しとし、それは意識化なく、感覚として道具の設計や生活の全般に反映される。
 
それはデメリットとして言語化を迫られる西洋文化に一方的に押しやられ駆逐されてしまったということがあるのだろうけれど、良い側面としては、エリートとか気づいた人とか、学者とかが文化を主導するのではなく、多くの一般人に共有される身体感覚それ自体がそのまま文化であり、叡智といえるようなことになっているということではないか。
 
西洋と違い、自意識が知的で意識的であらなければ一市民として不十分といったことではなく、その身体感覚・精神感覚を維持していれば、自然と周囲や世界と有機的な関係を結べる身体があり、だからこそ小指が握れない柄をもつ急須というものが一般的に流通したということがおこりうる。
 
野口裕之さんの整体における型の理解は、型によって「非自己」の状態を作ったり導くといったもののよう。西洋的な、自意識がやったり考えたりして生産的な展開が導かれるという考えとは逆で、自意識の支配的影響を相殺し、無化した時に、身体は世界と本来の応答的関係にあり、そこから導かれるものこそがもっとも創造的なものであり、適切なものであるという考えだと捉えた。
 
いかに自意識の支配と悪影響を無化するか。そこに焦点を絞り、追究されることによって自律的で創造的な文化が培われる。文化とは身体感覚・精神感覚そのものであり、そこにアクセスできる身体になること、あるいはアクセスするための型という技法をもつことが重要であって、自意識自体が気づけて知的なマッチョになることにはそもそも無理があり、逆方向でもある。
 
僕は来月から野口整体というか、裕之さんの整体を学んでみようと思っている。ここでは稽古着とかの着物も重要視されていて、上級者よりも初心者こそ感覚を培うために着物が有用なのだと捉えられているよう。
 
自意識がより気づき、獲得してマッチョになっていく「成長」ではなく、自意識を一時的にであれ、いかに無化し、本来の有機的関係に戻るところから世界との関係を再更新していくあり方には強迫性が薄いと感じる。僕は人の変化がどんな時におこるかということをず自分なりに探ってきたけれど、自意識の強迫が強い時に変化のプロセスは停止したり停滞する。
 
自己実現後の自分を夢見ることは実は現在の否定だ。また自意識自体をアイデンティティや価値とすると、老いや「否定的な」変化に対し、生が余計に停滞する。自意識はいかに無化するかに価値があるものとした時、自意識がいかようであるべきかという強迫は薄れ、より自意識の弊害は薄れる。
 
成長ではないなら何なのか。もちろん自意識をもつ以上、学びの必要ということはあるだけど、重要なことは、自己を非自己化することで世界との本来の関係性に戻ることであり、よりそのように近くなっていくことは、成長というよりは「培い」という言葉が妥当なのではないかと思う。
 
武術家の甲野善紀さんは、若い頃より合理的で速く動けるそうだけど、それも成長ではなく、本来の自然を生かせるようになったということで、それは培いと呼ぶのが妥当ではないか。培いは、自意識がマッチョになることではなく、自意識の否定的影響をできるだけ無化した状態に近づいたり、学んだりできる状態をもたらするための工夫であり、その整えが新しい状況を導く。
 
成長から培いへという転換、時代がもたらす個人の疲弊を変えていく軸になるんじゃないかなと想像する。