降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

当事者研究の試み

4ヶ月ぐらい当事者研究の試みをしてみている。

当事者研究は、医療機関から診断名をつけられ、受動的に医療に従わなければいけない状態から、苦労と主体を自分のほうに取り戻すためのスタートとして、自分に自己病名をつける。

 

僕たちがやっている当事者研究では、今のところメンバーは特に医療から診断名をもらってもいない。医療から主体を取り戻す以外に、自己病名をつけることはどんな意味があるのだろうかというところからやってみて考えている。で、やっぱりつけないよりつけたほうがいいんじゃないかと考えはじめた。

 

何が自分にとっての苦労なのかを自分で決めない限り、取り組む焦点がなかなか絞れない。問題は色々あれど、あえて、これと決めてみることで、それが仮に間違いであっても間違いと明確にわかるなら進展だと思う。だけれど、曖昧にしたままだと結局掴めるものがないような気がする。

 

自己病名をつけるために、自分にとっての生きることの苦労とは何だろうかと考えるのだが、なかなか中核的なテーマが出てこなかった。

 

だが今日地主さんと出会って、地主さんは僕が借りている畑の隣の畑で草をひいていたのだけれど、それだけで自分のいつもしている行動を抑えるというわかりやすい反応が出ていたので、これを取り扱えばいいかと思う。

 

いつもは隣の畑のネットを潜って農具小屋がある隣の畑に行くのだが、地主さんがいるときにそのネットを潜る行為自体は何も思われないだろうかという考えがきて、ネットを潜って隣の畑にいくのをやめた。

地主さんにどう思われるかは、自分にとって大きな問題となる。それがどうなっているかとみてみると、そもそも僕の畑の管理の仕方に違和感を持っていないだろうかという不安がある。地主さんが満足するような畑の完全な管理が自分はできていないという思い込みがある。別に言われてないけれど、もっと地主さんの畑周りに関しても草刈りをするべきだと思われているという思い込みがある。

 

お歳暮、お中元は毎年送っているが、しかし畑は自分のペースなので、そこに違和感を持たれていないだろうかと思っている。畑を返してくださいとか言われるとかなり困るわけだが、会うたびに自分の対応が適切なのかどうか疑いがはいる。自分は人にうまく対応できないという思い込みもあるので、会うたびに印象が悪くなるという危機が訪れる。

 

その思い込みの危機に対し、できるだけ向こうに反応がおこるようなことはしないというふうになる。行動を制限する。挨拶や声かけはするが、あんまり頻繁には近くを通り過ぎないようにするとか、意味のなさそうな抑制にはいる。

 

無意識に自分の行動を抑えること、殺すことによって安全をはかろうとする。行動全体にセーブがかかる。自分のアクションがきっかけで自分のコントロールできない状況が訪れることを恐れ、状況が変わるのではないかと考えられる言動を必要以上に制限する。

 

大なり小なり人間関係でこういうことがおこる。さしあたり対人手足ひっこめ病と名づけ研究していけるのではないかという気でいる。