降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

本当に鳴ること 驚きと内なる世界像の更新

岩倉英数研究会をされている。瀧セージさんのお話しを聞きにいく。4人で行き、2時間充実した対話の時間になった。

 


エデュケーションは、なかのものを引き出す、というのが原義だということを紹介してもらった。決まった知識を個々の頭に貯金でもするように詰めていこうとする教育観とは真逆のものだ。

 

引き出すということは、実際上はどのような関わり方になるのだろうか。
まず一つ重要だと思うのは、自分の内と外の世界が直接つながっているということの実感だと思う。

 

イリイチがラジオを例にとって、かつて素人が自分でケアできたラジオが新しくなって、安くはなったが複雑になり素人が手をだすことが困難になった事例を紹介している。

 

ラジオに自分で関わって調整できるというとき、自分と世界の間には隔絶がなく、自分が技能や知識をもつと、直ちにそれに応じて世界との関わりが広がり豊かになっていく体験がされる。個人内の変化が、自分の世界体験を直接変える実感がある。

 

安く複雑になったラジオは、ラジオ自体を聞く豊かさや利便性は増したかもしれないが、自分と世界との関わりに隔絶を生む。直接変えられる感覚を持てず、あてがわれ、よくわからなくても言われたまま従っていればいい世界。どうせ手作りしたところで、人が作ったものより劣ったものができるだけ。

 

ラジオは一例に過ぎないのだが、身の回りのもののほとんど全てが誰かによって作られた、自分はよくわからないもの、手が出せないものに囲まれてしまうと、個人内の変化が自分の世界体験を直接変える実感をもつ機会が奪われる。

 

重要なことは、ものを利用することより、自分と世界が直接繋がっていて、自分から出てきた動機により、体験される世界が変わっていくことへの信頼の獲得、あるいは維持だ。便利か便利でないかはその次のことであって、この信頼が疎外されると自信を失い、世界に圧倒され、不安から言われるままに依存したり、あるいは反動で暴走したりすることになる。

 

その逸話がどれだけ本当かどうか知らないが、個人の内と世界との関わりを端的に表現している話しに、ヘレンケラーが水に触れて、言葉と世界が繋がったエピソードがある。そのとき、言葉という手がかりによって、彼女の世界との関係は、受動から主体へと劇的に変化しただろう。何も手がかりもなく、否応無く影響されるばかりだった存在から、自分が主体となり、働きかけ、コントロールする存在へとなった。

 

他でもない自分自身によって世界体験は変えられる。世界は自分によって変えられる。この感覚がもし疎外されているのならば、まずはここから取り戻す必要があるだろう。
ラジオもたらすものがその人にとって重要なものである時、その作り方の知識を得て、初めて設計通りに組み立て、本当に鳴りだした時、本人は当たり前と思うだろうか? 思わないだろう。驚くはずだ。本当に鳴ったと。その時、驚きによって内面が作りかえられている。それまでのその人の世界像と、その驚きの後の世界像はもはや異なっている。

 

不安、自信の喪失、絶望、無関心。それらは、更新されない世界像のなかで強く人を圧倒する。自分の内にある世界像が更新されることが、世界体験を新鮮にし、元気と勢いをもたらす。人を再生させる。

 

世界像の更新は、自分の作ったラジオが本当に鳴ったという出来事によって遂行されている。単なる知識や技能の獲得ではない。それらは驚きという出来事を引き寄せ、世界像を更新するための整えに過ぎない。そしてこの驚きが世界と自分が本当につながっている、確かにつながっているという実感なのだ。この実感が能動的な主体としての自信の基盤でもあるだろう。

 

意図せずとも、この自分自身の驚きを奪われる環境、それがあまりにおこりにくいような環境は、自立的な主体にとって、何よりの疎外になるだろう。

 

世界との直接的な関わりの実感を可能にする環境、空間。学びの動機は、世界とのより一層豊かな関わりを作りだしていきたいというものだろう。

 

内なる世界像の更新は、自分にとって重要なものごととの関わりに置いて、もっともおこりやすいだろうと思う。そうでないと散発的に鳴り、持続的にもなりにくいだろう。自分にとってよりリアルなもの、より直接的なもの。そういうものが停滞を更新する力をもつ。