降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

学び 自律的な現出

学びの環境を整えるという時、自分のあるべきイメージを達成するために自分は黒子になって、という発想はよろしくないと思っている。

 


むしろ自分の学びのプロセスを展開させるということをど真ん中に置いてやり、それが逸れて虚しくなったり世間を恨んだり人に不満をもつようになったりしているシグナルが出たら敏感に見つけてさっさと軸を調整する。すでに知っているやり方が通じなかったら新しいやり方を模索する。

 

それは自意識が大きくなることではなくて、むしろ謙虚になることだ。心のフットワークは軽くなる。

 

自意識は元々の性質として、動かず変わらず、同じあり方、感じ方、考え方のままであろうとする。自分が変わらないでいいと高を括り、それを人にまで押し付けようとする。

 

だが学びのプロセスはそれだと停滞する。だから学びのプロセスを優先するとき、自意識はふんぞりかえっていられない。さらに言ってしまえば、ふんぞりかえっている状態は鈍感で不健康な状態だ。

 

しかしそんなふうに傲慢になれるのはなぜか?と考えると、そのような強烈な麻痺やそのための高揚をもって補わざるをえない自己否定を抱え込んでいるとも考えられるだろう。

 

生というのは、保守性であって問題がない限り同じ状態をとどめようとする。が、同時に変わらないことによって長いスパンでは必然的な危機が訪れる。厄年なんていうのは、老いて色んなことが変わっているのに若い頃と変わらない思考フレームでいて、さらに無理に補ってしがみつこうとしているから暮らしのあらゆる場面で不整合を導いた結果、もはやそれではどうにもこうにも成り立たなくなるような出来事を招くといったものだったりするのではないだろうか。

 

ともあれ、基本的に人にとって保守性、慣性の力は強く働いている。だが、同時にこの自分が根源的に救われるような希求もある。

 

事故、事件など、自分のコントロール外の他者に出会うと、同じところをぐるぐる回ることがもう成り立たなくなる。

 

虚しいことがわかる。もはや満たされないことがわかる。それはその場面だけを切り取るなら悲劇かもしれないが、長い目で見ればより本来的な自分のあり方に移行するプロセスの始まりだ。終わるかどうかは保証されていないけれど。

 

生命を同じように維持するために同じことを繰り返さなければならないというのは心がより死んでいく間違いであって、古いものを終わらせ、更新が重ねられることによって、心は死んだところから生きるところへいく。学びというのは、心に関わることだ。言語によって止められた世界、決められた世界にいながら、その世界を更新していくのが学びだ。

 

自分の体は老いていっても、学びによって認識フレームが更新されると、世界は新鮮に体験される。その新鮮さは恵みそのものだ。

 

学びに向かうとき、自分に軸を置く必要がある。だが、学びということは自分のなかだけで完結するものではない。学ぶとき、その人は周りの世界も必然的に変えている。環境を作り出している。

 

こうも考えられるかもしれない。私ではなく、場や環境の潜在性が、私という媒体を通して、自律的に現出する。私はその自律性に使われているだけだと。だがその自律性に私が使われることは、他への服従とは違って、喜びと生の展開を生み出す。