降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

旅としての学び 能動という反逆

学びを将来のアウトプットのためのものと考えるなら、明日なき今を生きている人たちにとっては学びは縁遠いものになるだろう。

 

先のためではなく、今ここ自体を面白いものにするために入る状態がむしろ学びの核心ではないだろうか。獲得するものは、結果として、派生的に生まれたものではないだろうか。

 

この私にただ付け加えられ、蓄積されるものにそれほどの面白さがあるだろうか。むしろこの凝り固まった私が変えられていくというところに面白さがあるのではないだろうか。

 

 

学びとは旅であると思う。そして旅の状態に入ることが生を私として生きるということなのでないかと思う。

 

学びの過程には2回の出会いがあって、旅がはじまるきっかけとしての出会いと旅が終わるときの出会いがあると思う。

 

最初の出会いは、これまでの自分が今までと同じバランスではいられなく出会い。バランスの崩れをもたらす出会い。変わるまいとする求めよりも変わろうとする動きが強くなる。

 

生の力は、崩れたバランスを取り戻そうとするときに動く。その時に大きな力や潜在性が現れ出る。統合失調症になっても、作品をつくるために治りたくないと治療を拒否した人の話しもある。大学時代の集中講義で、心理療法を受けている段階でものすごい絵を描く(実際にスライドで見せてもらった。)人が治療の終結とともに平凡な気の抜けたような絵になっていった経過を見せてもらったことがある。

 

論楽社の虫賀宗博さんが、鶴見俊輔の「親問題」(生みの親の話しではなくて、苦しみとして感じられる個々の問題をそもそも生み出すものという意味だと思う。)の話しを引用していたが、それぞれの個人にそれぞれの根源的な苦しみ、バランスの崩れがある。それは簡単には終わらない苦しみであるからこそ、崩れたバランスを取り戻そうとする大きな力も同時に生み出される。

 

この力を使い、生を場当たり的で受動的なものから、能動的なものにすることができる。学びとは、今の私が本来的な私に戻るための反逆でもあるだろう。能動とは実のところ反逆なのだ。この反逆は、崩れたバランスを取り戻そうとする生の力と同期させることができる。親問題があるために、いつでも選択的に学びの状態に入ることができる。
親問題という観点から見るならば、最初の出会いは生まれたことということになるだろう。圧倒的な無力さの実感。この世界の理屈に否応無く従わなければならない理不尽さ。苦しみを減らすためには、自分が変わらざるを得ない。生きるために変わる旅は、それ以上変わる必要がなくなる死によって終わる。

 

生まれてから死ぬまでという基層としての旅の上あるいは中に、個々の具体的な旅がある。私の旅がある。だがこの旅は、実のところ私としての苦しみ、私という苦しみを終わらせる旅であり、私の死に向かう旅である。私を私でないものにしていく旅だ。私という一種の牢獄を抜け出ていくための旅だ。

 

個々の旅に終わりがあるように、個々の学びにも終わりがある。きっかけの出会いから始まった旅は、私を変えてしまう次の出会いによって終わる。変えられた私はもう同じものではない。感じ方、体験のされ方ははもう違っている。そしてまたそこからその私を終わらせる旅をはじめる。私を終わらせる旅のなかに、旅の途中の状態にあえて入れる。

 

生が、崩れたバランスを取り戻し、本来と想定される状態を維持する動き、つまり変わらないこと、保守へのエネルギーの流れであるのに対して、このエネルギーの流れを逆手にとって、まるまると利用しながら変化していくという反逆をする。この反逆のなかに、固定的・静的なものではなく、プロセスとしての私がいる。この反逆、この転倒のなかに自由があり、能動があり、充溢がある。