降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

生と死の転倒 喪失するアンデッド

変化は喪失であって危機であるので、それを乗り越えられるとは限らない。

 

気軽に変化を求められるのは、状況や状態を変えることによって、実のところは自分のいるところが変わらないで済むからであるかもしれない。

 

 

維持したいというのは、生きものの欲求のようであるけれど、そのかたちをみると死の欲求だなと思う。変わらないように、同じままで、という強い衝動。

 

 

生と死についての認識は、僕のなかではだいぶ逆転してしまった。生きているものが必死で、死という変わらなさ、安定を維持しようとしている。それをどこまでも追究した世界は、かなり生きにくい世界になるだろう。そんな世界で生きていて人としての喜びがあるのかという世界だ。

 

 

何度か言及したけど、フィリップ・マーロウの「優しくなければ生きる意味がない」というセリフは、そんなところで生きていても仕方がない、そんな世界は生きるに値しないという解釈もあるという話し。

 

 

生きるということは、死に切れなさのなかに投げこまれるということで、そこで死に切れなさのまま、サバイバルで生きようとするとき、そこに人はおらず、死に切れないもの、アンデッドがいる。身もふたもないけれど、一般に人間はアンデッドなのだと思う。

 

 

死に切れなさに対して、その優位を理解しつつ、しかし反逆するとき、そこにはアンデッドではなく、人がいる。その「人」は、存在している物体のことではなくて、そこに現れる状態、空間や関係性の質のことを指すものだろう。それは互いに何かから許されたような状態であり、信念に変化をおこすような状態だ。

 

 

ジャン・バルジャンが暖かくしてくれた人を裏切って、銀の食器か何かを盗んだことを被害者本人の司教に許される場面がある。想像もできず、ありえないことに出会うとき、それまで自分だと思っていた自分が破綻する。自分とはこれだと信じ、隷従していた理屈、自分と人を疎外していた理屈、自分をこれでよしとしていた理屈が破綻する。

 

 

救われ、同時に、もはや放っておくことのできない、抱え切れないものを贈与される。

 

 

手塚治虫のマンガで、盗賊があるとき命を救ってやった虫が美しい女性になって盗賊の元に現れ、妻になる。だが盗賊は奸臣に騙されて妻を殺してしまう。殺した瞬間、妻は盗賊の視界から消えた。よく見ると、雪のなかで盗賊も見覚えがある小さな虫が死んでいた。

 

 

盗賊の深い人間不信、その表裏である自己憎悪。そしてすがっている自分の価値。その強烈な信念が命を捧げられるという贈与によって破綻する。盗賊として人を害し、奪うことを当然として収めていた土台が崩壊する。

 

 

ジャン・バルジャンも、ただ自分がラッキーだとか軽く受け止められたりはしない。今までの合理化を全て破綻させる赦しは、抱え切れないものを抱え込ませる残酷な一撃であって、手塚治虫の盗賊も、自分が誰よリも不幸であり、人間は全て人を殺しても自分が生きようとするもので、よって自分は誰よりも正しいというところもにもうすがれない。犯してきたことも、自分の惨めさも、もはや合理化できる術がなく、自分を押しつぶし、危機におとしいれる。

 

それまでの自分イメージを維持させてきたものの喪失は、否応なく次の状態を求めさせ、駆り立てる。このままではもはや生きていけなくなる。生きていくには、この救い、この残酷な贈与を与えた人の状態に、自分自身がなっていくしかない。

 

 

生きものはアンデッドであるのに、変化を求めるのは転倒している。人の場合は、アンデッドがアンデッドのまま変わらず生きられるための世界を作り繁栄しようとしているのに、そこにとむらいを向け、死に切れないものを終わらせていくような変なものたちがいる。

 

 

だが、実際、人として生きるということは、死に切れないものを終わらせるということなのだ。死に切れないものが死に切れないままで生きることが最大の苦しみであることに気づいてしまったのだから。維持ではなく、より喪失すること、何も持てないことに気づくこと、変わることのほうが救いであることを知ってしまったのだから。