降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

微妙な揺れ動き 

話しの場をどのようにやれるかを試行錯誤中。

 

今やっている当事者研究やリフレクティング・プロセスの集まりで、一つは自分に触れるということをしていると思う。

 

 

自分自身が確かめたい、もう一度見てみたいという動機があるもとで、ひっかかりが残っていたり、葛藤がおこった状況を話してみる。趣旨はガス抜きではなくて、そこで実際にはどんなことがどのようにおこっていたのかを見ること。

 

 

話すなかで、一瞬の出来事、一瞬の認識のなかで何がおこっていたのか、どのような背景があったのかなどが発見されていく。あの時自分はどうだったろうか、そのプロセスはどうなっていただろうか。おこったことを想起し、もう一度見ていく。

 

 

もう一度見て、そこで発見されていくことをもって、自分に触れると考える。自分に触れるということによって、認識や感じ方に実際の変化がおこる。同じ繰り返しがずれ、まだぐるぐるしていたとしても、前とは少し違うぐるぐるになる。これを繰り返せていければいいと思う。

 

 

このことがまずあり、次に、場を共にする人が、自分がどうあればお互い自分に触れるという環境を提供しあえるだろうかという感覚を育てていくということがある。自分に触れるということがおこる環境とはどのようなものか。この理解を深める。

 

 

得た理解を実際に日々に豊かさをもたらせるものにできるだろうか。集まりの場だけでできるのではなく、その場でやってもらう時だけできるのではなく。

 

 

手法はあくまで手法であり、それを応用する自分の感覚が育つことによって、それが必要なくなれば、使わなくていい。手法を身につけること自体が目的ではなく、それを使うことによって、何がどうなるのか、どのような世界が見えてくるのかという学び、感覚を育てることが重要なのだと思う。

 

 

昨日は鈴鹿の友人がたどり着いた対話の試行を体験させてもらっていた。

 

 

今自分たちがやっているリフレクティング・プロセスは、やるのに3人から4人ぐらいは必要で、話し手、聞き手、それを聞くギャラリーの3種類の役割が必要だ。

 

 

だが、それを二人である程度できないだろうか。もちろん限界はあれど、リフレクティング的な効果をもたらすような。聞き手は、自分の個人的見解や反応に突き動かされることを避けながら、同時にそこで想起したことや感じられることをフィードバックする。これができれば、話し手、聞き手(兼ギャラリー)の二つの役割はあるが、二人でできる。

 

 

そして最終的には、話し手、聞き手という固定した役割を排し、どちらかが話し手でどちらかが聞き手ということなく、そのやりとりをする。話しの中で、気になったところがあれば、ちょっとそれ見ようか、という感じでやる。

 

 

その最終段階と思える状態を、今はやれる人が限られているけれど、友人はそれがやれている感じがあるという。今は一人だけらしいけれど。またいつか実際にその場面を見させてもらえたらと思う。

 

 

今回は初体験なので、僕が話し手、友人が聞き手という役割でやってみた。その感じは独特だった。ポンポンやりとりする会話ではない。時間の流れはむしろゆっくりだ。培養液の中で、細胞が増えていくのを見ているような、そんな感覚になった。

 

 

劇的なことがおこるわけはないが、ゆっくりで止まっているような時間のなかで、水槽のなかに浮かんでいる臓器の揺れ動きを見るような感じ。相手が提供してくれる、連想したり思い浮かんだことをもらって、自分の実際はどんな感じだろうかを確かめる。

 

 

この微妙な揺れ動きを感じ、見ていくことができれば、十分なのではないだろうかと思った。劇的な解決は必要ないし、劇的なものを求めることの裏には多分信頼できない何かがある。重要なのはこの微妙な揺れ動きを見れるということなのではないか。