降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

聞かれるとき

昨日は聞くことについて話した。

 


あくまで僕の場合、別に危急の時とかでない場合だが、僕は聞かれるとき、基本、心理カウンセラーとか傾聴みたいに聞いてほしくない。話しづらいから。

 

相手にそうあられると、話す内容に対して、あらかじめベートーベンの「運命」みたいな曲として受け取りますよ、と構えられてるみたいで、いや、そういうノリじゃなくて、こちらの話そうとしていることがどんな曲調、リズムなのかは聞きながら体で合わせていってほしいんだけどと思う。

 

基本、友達が大事なことを話すときにふんふんと聞く、みたいな感じでいいのだけれど。

 

「聞き出す」ことを意識されてもやりにくい。こちらが話すのであって、そこでおこることが自律的であれるように、環境を準備してくれればいいのであって、自分の技術や能力でやることに意識を向けられすぎても、全然聞かれている感じがしない。

 

自分に意識が向きすぎていて相手がいない。

 

自分がもっとこうしたら聞けるとか、うまく問題解決に導けるとか、あるいは自分は足りないとか、一見相手を大事にしているようで、相手への意識ではなく、自分中心の意識だ。自分がどうあれるか、あるいはあれないかだけを気にしている。

 

そして自分がどうであるか不安に陥れば、不安は目の前に相手に伝わる。聞くほうが不安になってしまうと、聞かれる相手も自分の言ってることがもしかして間違いなのかみたいな不安になる。

 

普通に聞いてほしい。今の自分以上のものになろうとすることを諦めてほしい。話しをはじめたらそこからはもう色気を出して自分で不安になるのはやめて、まな板の鯉として覚悟を決めてほしい。

 

二人で小さな舟に乗ってしまってどこかにたどりつこうとしている。

 

どれだけ不十分でも、そこでわかること、感じることに対して今の自分なりに開かれ応答的になるには不安になっても仕方がない。心はデーンとしていてほしい。聞かれる側としては聞く側のほうも自己一致していてほしい。

 


自分はこうだからと決めてかかってその方針を相手に押しつけることとはまた違うのだけど。