降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

学びの前段階 手段と目的

学びを実際の変容が伴うものと考えるなら、直ちにインプットから始まるのではなく、まず変容可能な状態にする場の整えが必要なはずだ。

 


攻撃されそう、否定されそう、干渉されそうとか感じる場、自分はここにはそぐわないとひしひし感じる場では、まず自分と環境の関係性の整えは不十分といえるだろう。そこに何か新しいものに触れる機会を提供したり、新しいものを媒介させたりしても、はじめから変化に閉じているから、効果は不十分だ。

 

そう考えると、場の信頼関係の醸造こそ最優先の課題になる。安心でき、個としての尊厳が提供される場。何か言ったら直ちにそれは違うとか、じゃあこうしなさいとか、相手が話しかけてきたのをいいことに自分の話しを聞かせることに軸を持っていくような、相手のプロセスを無視した関わり方からはじまる場ではなく。

 

この人の今言ったことは、この人のなかでどのようなプロセスがおきていて、それがどのように動こうとしているからその表現として現れているのだろうか。自分はもちろん、この人さえ知らない何かがあり、それが動こうとしている。そのプロセスを阻害することなく、共に進めていくには自分はどのようなあり方でいるのが適しているだろうか。それは常に手探りのものになるはずだ。

 

24時間そのあり方でいることが難しくても、自分たちでつくる場などではお互いがそういうところに近づいていくということが重要だろう。先日の投稿で紹介したフリースクールわく星学校のミーティングでは、子どもたちが他人の話しを聞くということが成り立つまで5年かかったとのこと。

 

そんな気の長いことをやる。時間をかけて関係性を醸造することで、しかしそれに見合うものが得られていくだろう。この土台、この基盤は、学ぶための整えという手段でもあるが、ここが育てられていけば後は派生で物事が展開していくのだから、実は目的でもある。手段でありすでに目的。

 

目的のための手段は、なぜか人の主体性を失わせたり、元々向おうとした価値に対して本末転倒な状況を生んだりすることも多い。目的を得れば報われるようでも、それを遂行するための手段の実行自体は疲弊的で虚しかったり。

 

素人の乱松本哉さんは、駅前で鍋をやって、そこに知らない人とかがやってきて交流する。その鍋は仲間集めという手段でもあり、既成秩序が終わった明日の世界を今、共に体験し味わうという目的でもあるという。

 

疲弊的な手段を重ねて報い(目的)に到達するのではなく、手段が既に充実であり報いであることを重ねていく派生として、次の展開がある。それぞれの場所で、自分たちでつくる話しの場はそのようなものになりうると思う。