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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

現代の学びの場

自分が考えてきたことは、つまるところサバイバルについてだ。この社会でどう生きればいいのか、どう生きられるのか。人の変化や回復について確かめていくことも、サバイバルのなかに入る。

 


ただこれは、多分サバイバルという言葉がよく使われている文脈、つまり短期間の特殊な状況や危機的状況をやり過ごすサバイバルではなくて、人間の作った社会、この文化圏のなかで、ある程度長い時間生きていくという仮定の上でのサバイバルだ。

 


人間の社会では、短期間さえなんとかやり過ごせばあとは大丈夫、というわけにはいかない。しかし、だからといってすり減っていくわけにもいかない。状態をより整え、だんだんとエネルギーやできることを増やしていくということまでできて、サバイバルが成り立つと思う。短期間のやり過ごしでは不十分で、エネルギーを蓄え、状況を変える力を増やしていってようやく主体的な生を維持することができる。

 

このようにいうのは、例えば自分が何らかのマイノリティになっている時、社会で用意されているものは全く不足していて、自分で自分の生を作りだしていく必要があるからだ。文科省がなおLGBTについて教科書で取り扱うことに向き合わなかったように、待っていても与えられない。

 

性的マイノリティでなくても、人はちょっとしたことで、いつでもマイノリティになる。実のところ、個々人の個性に対して社会が支援的などということはない。個々人の特性を生かすには、個々の必要を満たすための手づくりの自分たちの環境がいる。

 

子ども食堂を例にとるなら、本来行政がやるべきところなのに行政が能わないため、その場その場の人がやらざるを得ないからそれは生まれてきている。

 

行政は、今後色んなところでますます能わなくなるだろう。過労死ラインがおよそ80時間だとされているのに、残業時間100時間がOKになる現状。年金支払い年齢は繰り上げが検討されている。行政に対し、今後も強くあるべき姿を課していくと同時に、自律的に自分たちの生存圏を作っていくことは、今や不可避なのだと思う。

 

エネルギーをため、行政の不能や不作為に関わらず生きていく力を増大させていく自律的な人間関係。自分たちで自分たちを回復させていく場所。そういうものが必要だと思う。自分たちのエンパワメントベースを。自分たちがより良い生を生きるためのサバイバル。一般の人に対するエンパワメントは、別にやってもやらなくてもいいようなことではなくて、それぞれがサバイバルとしてやる必要があると思う。

 

多くの生きものは、どんな時でも死ぬ可能性があるのが前提なので、刺激に対する反応は、長い生存を仮定した行動を取らずその場その場をやり過ごして生きようとする。
ところが、ある程度長い時間を生きるとなると、その場その場をやり過ごすために身につけたことが、逆にマイナスに働く場合が多い。

 

人間の場合、ケアがなされず放置されていれば、幼い時に危機的状況にさらされるほど、現実にある様々な文脈を汲み取ることができなくなり、その場その場の細切れの文脈に対する反応(多くの場合長期的な人間関係を構成する上ではネガティブなもの)が優勢になる。

 

ある程度長い時間を生きることを仮定するなら、この一度身につけたものを解きほぐし、新しい反応や認識のあり方に再編される必要がある。

 

だが生きものが危機に対して一度身につけたことを捨てるというのは、かなりハードルの高い作業だ。個としての尊厳と安全が提供される場が必要となる。個々人はどのようにお互いに尊厳を提供し、守りあうことができるのか。学びはこの土台づくりからはじまる。

 

その土台を作りながら、現状のなかで、新しい状況を作りだしていく。自分たちに必要な新しい状況を検討し、実現していく。現代の学びの場は、そのような場になればいいのではないかと思う。