寝る前にわりと毎度親のことが頭に浮かぶ。
両親とも一応元気だが、年はとっていくし、父は脳梗塞以来歩きにくくなっていて、熱など出ると自分でトイレに行けないらしい。
らしい、というのは姉から聞いた話しだから。
正月は帰るし、別に話さないわけではないけど、それ以上特に関わりもしない。
関わりたくないというわけでもないが、関わる強い気持ちもない。
寝る前は、なんか今日の自分の過ごし方が問われるような気になっている。
自分は面倒くさいものを放棄している。週に2日しかバイトしないし、特に何もしない日も多い。
寝る前は、全ての義務から解放された状態なのだなと思う。
もう寝るだけで、何もしなくていい。
義務や強迫から解放されるから思い浮かぶのだろうか。
自分を支え続けて、そして老いていく親。毎日仕事して、家事をして生きている。自分は、自分の今日は、そんな親の、自分に対する捧げに値するものだったろうか?
親孝行しようとか、そういう殊勝な気持ちを持っていない。親のことを心配するとか、ない。心配するのは自分の都合だ。
死ぬ前もこんな感じなんだろうか。やってもらったことに対して、思いを持ってもらったことに対して自分は値しただろうか、となるのか。いつも人のことなど何も考えてないのに、最後だけ都合よく、いっぱしの人みたいに殊勝になるのか。許してほしい、となるのか。
義務から解放された時に、負債が残っていることに気づく。返そうとしていることに、気づかず、普段を過ごしているのかなと思う。
ちょっとあとで思い返してみると、恨まれるという感覚が近いかもと思った。沈みゆく船に乗っている両親、そしてまだ大丈夫な隣の船から見ている自分。まあこっちもいずれ沈むのだけど。
恨まれるのが怖いということで、殊勝ではなく自己都合だ。なんで恨まれることを恐れるのだろうか。もう少し見てみる。