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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

リアリティをひっつける

話しの場では何がおこっているのか。

 

 

言葉を使うので、言葉が作用することをやっているんだろうと思うけど、言葉を使う以前に表現するということでもある。

 

 

表現一般とは何なのか、そういうことはわからないけれど、自分が自分に関心に基づいて確かめてきた人の変化、更新というところにおいて思うのは、人は自己更新するときに世界と新しい出会い方をしようとすることが一つあると思う。

 

 

今まで言わなかったようなことを言うとかも、その出会い方の一つだろう。体は、その出会いに賭け、変わろうとする。自意識は恐れるのだけど、その人にとって整った環境では、言おうと思ってないこと、やろうと思ってないことに自然と現れてくる。自律的に現れてくる。予想していなかった自分がある。

 

 

そもそも予想していた自分、イメージしている自分を現実と思い過ぎていて、何かやる前から自意識は結果を決めている時もあるのかなと思う。結果を決定すると、体験される世界が決まる。

 

 

決定とは、自分で物語の結末を書くことだ。次に、その決定に基づいて世界が体験される。自分で書いた絵本の物語に閉じこめられるようなものだ。絶望や悲嘆、虚しさがやってきたりするけれど、自分が結論づけたから世界がそのように体験されるとは思わない。世界がそうだから、自分は・・と体験される。

 

 

苦しみが高まる。高い圧がかかってくる。苦しみのなかで、その圧が逃げるあり方が模索される。小手先のことで変わらない場合は、根本的な向き合いを始める。圧力は、たくさんの水が自分で流れやすい水路をつくるように、次の水路になりそうなところをノックしてくる。

 

 

新しい水路は、自分より先に、その水の流れが決めているようなところがある。支持的な、整えられた環境では、圧力は破壊的にならず、既に周りにあるものと共同作業をしながら、新しい水路を開発する。新しい水路、めぐりの通路ができた状態で、全体としても整う。

 

 

圧力があまりに高まり過ぎたり、整えが不十分な環境だと、圧力は暴発し、破壊的な成り行きになりやすい。

 

 

人の変化更新において、表現とは、出会おうとすることであるのかなと思う。出会いから疎外されている状態から踏み出し、物語を更新する新しいものに出会うことなのだと思う。

 

 

整えられた話しの場では、自律的な変化がおこる。自分にとってのリアルを表現することは、元の物語に留まることではない。リアルさは、更新をおこすために欠かせない要素ではあっても、それ自体は完成物にはならない。リアルさは、体験をひきおこし、心のなかに出来上がった世界を揺り動かし、更新するために必要なものだ。

 

 

逆にいえば、リアルさを引き起こすものを使って、心のなかの世界を更新することができる。言葉でも、身体を使ったことでも、自分にとってのリアルさを「ひっつけ」て、ひっつけたものを動かすと、いつもは静止している心のなかの世界が変わる。

 

 

本当に思っていないこと、感じていないことに沿ってされた体験は、更新をおこす体験にならない。自分にとってのリアル。リアリティ。それがどんな時も基盤になる。

 

 

だから話しの場は、まず自己一致の状態が整ってくる場である必要があるだろう。その自己一致のもとで、気のめぐりは次の状態へのノックをはじめる。あるいは既にあったノックが気づかれる状態になる。

 

 

変化更新とは、古いものの死でもある。だから恐れも抵抗もある。と同時に、その古いものに倦む気のめぐりがあり、新鮮さを回復する求めがある。その気のめぐりが求める方向に自分を差し出す。そちらの方向へ踏み込む。

 

 

踏み込みを止めると、またもう一回高まりがくるまでの一周がやってくる。自意識の前には、生きる(維持する)ために死ぬ(停滞する)のか、死ぬ(終わらせる)ことによって生きる(再生される)のか、の二択がいつもある。