降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

終わりない学びの場はつくれるか

話しの場の可能性、当事者研究、リフレクティングプロセスの場などを通して共に探りたい。

 

 

話しの場、エンカウンターグループにしても、傾聴やカウンセリングみたいなものにしても、治療者、聴き手、ファシリという役割がある。

 

 

その役割抜きに話しの場は成り立たないのかと考えると、いや全員がファシリになれる状態になってたら成り立つのではないかと思う。

 

 

漁師が海を読むように、それぞれの人が、場に対する感覚を育て持ち、それを生かすことができるならどうなるだろうか。

 

 

素人に対して、専門家がつき、導き、その場を構成する型から、それぞれがある程度、人や話し、場に対する感覚を育てながら場を構成する型、育ちあうピアというかたちができないか。

 

 

畑でたとえるなら、それぞれの人が別に自給する必要がないけれど、作物づくりの講座に教えてもらいに来ているようなかたちから、それぞれの人が作物を毎年自給しつつの協同の学びの場を構成しているようなかたちへいく感じ。

 

 

鈴鹿にいって、観察という視点を得た。一人一人が自分の反応を観察することを身につけていくと、やりとりや場の質は大きく変わる。今の僕は、観察は除くことができない要素だと考えている。

 

 

次にリアリティ。奥底から出てくるその人の凝縮されたリアリティは、場を変える。人は場の状態に大きく影響されるが、そのようなリアリティは、場自体の性質を変え、おこることの質を変える力を持っている。

 

 

当事者研究のような、個人の深い苦しみの一端が現れるような場は、そういったリアリティの力を使っていると思う。

 

 

自我の自動的機能は逸らすことであり、緊張が高まるようなことは、そもそも選択肢として思い浮かばなかったり、どうでもいいことへと向かおうとする。

 

 

その逸れをこえるために必要なのは、その人がはじめから持っている強い興味とのつながりだと思う。その興味とはその人が持つ根源的な苦しみであると僕は思っている。

 

 

人は無意識であっても、その根源的な苦しみをこえるあり方を模索している。強い興味関心は、その人の苦しみと関わっている。その苦しみを終わらせようとする力こそ、持続的なエネルギーの源であり、充実を感じさせる背景なのだと思う。

 

 

人は整った環境では、自律的に変化更新への動きをおこす。尊重するとは、その整いを用意することだ。どのような状態が整いなのか、そこから探し確かめ、感覚として知っていく必要があるだろう。

 

 

話しをするということは、時間とエネルギーを投資してより追究したあり方を身につけていっても何も無駄がないと思う。自分の整え、話しの場の整えをずっと学ぶ。そういうことをこの指とまれで、周りと共にやっていきたい。