降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死を避ける生と死によって生きる生

誰かの描いた物語を生きる。

 


そこに寄る一体感と高揚、安心感は大きく、自分の望みとそれが同じであると信じたい気持ちは、小さく発信されている違和感を圧倒するには十分なのだろう。

 

ウィニコットは、幼児は母親を見ているのではなく、母親の瞳に映る自分を見ているといっていた。物語はさしづめ自分に意味をもたらす母親の瞳なのだろう。どのような母親の瞳であれ、それを失うことは、死と同じなのだ。

 

そしてその死はただの終わりではなく、それを避けるためならどんなことでもするような、世界が根底から破綻するような恐怖そのものとしてあるのではないか。そこから外れることは、立っている場所が支えを失い、底の見えない闇へと落ちていくような恐怖をともなう。

 

その恐怖は既に経験されているのかなと思う。

 

奪われる前に、与えられた状況がある。与えられた状況は、どれだけ奪われるかを作り出すために設定されている。

 

二度と経験したくない恐怖の再現を避け、元の与えられた状況に戻ろうとするのが、生であるのかなと想像する。生き残るという主体の意思による積極的な動機ではなく、堪え難いことを何がなんでも避けるという受動に駆られることのほうが生の本質に近いのではないか。生きることは、変わることより留まることのほうに重心があるようにみえる。

 

ある物語から抜ける契機は、事故のような、どうしようもない不条理さであるのではないかと思う。信じていた物語を破綻させ、もはや成り立たせなくするもの。そうでなけば、恐怖に駆り立てられている生が、物語から抜けることができるだろうか。
だが、そんな生のありようと真逆に、「生きる」という言葉が使われている。生の支配に従うのではなく、生きながらにして生をこえていく反逆に対して「生きる」という言葉が使われている。

 

生き続けるための生とは、対極にある生。瞬間の生。同じ停滞を終わらせ、生の質を更新する生。それがおこる時に生きているといえる生。
留まり、静止したもの、構造として安定したものを生と呼ぶのをやめ、動きそれ自体、動くものそれ自体を生と呼ぶなら、生きている主体は、自分という記憶とその反応ではなくなる。

 

動きとしての生は、自分という記憶ではない。自分というシステムにとって他者であり、動きそのもの、エネルギーの流れそのものと出会い、それによって作り変えられることが、主体を生きることになる。

 

死を避ける生と、死によって生きる生。動くものを殺して生きる生と、動くものに自らを捧げていく生。固定的なものを自分とみる生と、動きや流れ自体を自分とみる生。