降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

生きること学ぶこと

なぜ今のようなことに関心を持ち、今のようなことをやっているのか。

書いたこともあったけど、2年半前なのでまたあらためて。

 

kurahate22.hatenablog.com

 

 

そもそもは中学時代に始まったフラッシュバックがことのおこり。

 

いじめや嫌がらせをしてくる同級生を強く軽蔑し、気持ち悪いとも思っていたのだけれど、ある時その彼の性質を自分も持っているとわかった時があった。

 

すると今まで彼に向けていた強い軽蔑や憎しみは全て自分に向かってきた。ある種、自分は筋を通して生きてきたと思っていて、そこにすがっていたけれど、真逆だった。

 

不意に襲ってくるフラッシュバックは強烈だった。それをマシにすることしか考えられなかった。将来に幸せになるとか、この苦しみの前でもう割の合うものではなかった。

 

緩和していくにはどうしたらいいか。それだけを考えてきた。「成長」したらいいのか? フラッシュバックは何年も経っていくうちに、強烈さは薄らいでいった。しかし、それが弱まったところで、人への恐怖や緊張も強く、人と合わない。今更どう生きていったらいいかもわからなかった。

 

河合隼雄の本を読んでいて、ここにまともな大人がいると思って心理学に興味を持った。人の世話をするつもりなどなく、自分の苦しみを終わらせるヒントを得ようと思って臨床心理学科に入った。

 

学科に入ってみると、心理カウンセラーの人が不適応ぽかったり、対人緊張強そうだなと感じた。心理学を何年も学んだところでそのあたりは変わらないんだなと思った。

 

カウンセリングは社会不適応になった人を社会に戻すような働きをしている。しかし、社会に歪みがあるから、患者が生まれているのではないか。また臨床心理学は、心のことを扱うといいながら、カウンセリングという一技法以外への関心がまるで欠けているように思えた。


そんななかで、映像作家の坂上香さんを知った。終身刑者たちが作る自助グループの取り組みを扱った「ライファーズ」を観た。人間の回復とは何かに迫っているのは、臨床心理学じゃなくてこっちのほうだと思った。


ライファーズ映画予告編

 

カウンセリングでは、治療者と患者という役割関係がある。だが、その上下関係が変化を滞らせている面もある。どのようにしたら人はスムーズにある状態から次の状態へ移行していくのか。そのことに意識的になったカウンセラーたちは、例えばプレイバックシアターなどの演劇的手法に向かったり、自然のなかでの回復を探ったりした。しかし、そういう人たちはメインストリームから外れる。

 

多くのカウンセラーが、心が何か、人間にとって回復とは何かという問いを追究するよりも、カウンセリングという技法は前提で、そこを追究する。そのこだわりは、僕には馬鹿馬鹿しかった。

 

人の変化に関わる周辺分野を探った。自分の関心にダイレクトに応えてくれる分野はないようだった。文化人類学科に移籍し、四国遍路を研究テーマにした。四国遍路において旅人たちは治療者の存在なく、変化や回復をおこしていた。四国遍路において、旅人は旅の途中の人に支えられながら、自然や旅の厳しさに揺り動かされ、変化していく。

 

人の肯定的な変容には、支えられながら、同時に揺り動かされることが必要だ。問題は、自分のなかにできてしまった反応のシステムをいかに終わらせるかだ。反応のシステムは揺り動かされない環境では、変わる必要がないので、自己保存の力が優先し、変われない。また危険すぎる環境でも自己保存、過去へのしがみつきが優先される。旅は、人に支えられながら揺り動かされもする媒体であり、変化に適している。

 

四国遍路において、旅で何をやるか、どのように旅するかという程よさを各人が自己調整できる。適切な環境と適切な媒体があれば、人は自律的に変化のプロセスに必要な選択をし、行動をする。治療者は必要ない。いかに適切な環境と媒体が調整されるか、それが問うべきことだと理解した。

 

心の内奥や無意識を把握する必要もない。適切な場づくりができるなら、人は勝手に変化のプロセスに入る。変化に必要な場はどのようにつくれるのか。市民が無農薬米づくりに参加する企画をしたり、心理学のワークショップのようなことをやってみたりした。

 

だが、何か疲れていく。人が交流する場をつくるのはある程度の面白さや刺激はあるが、十分ではなかった。そんな時自給の哲学に出会った。百万遍で自給自足の畑と田んぼで取れたものを定食にして出しているカフェがあった。オーナーは、自給という視点から一貫した農法を確立していた。

 

自給農法は、有機農法と自然農法の中間に当たる。どちらも無農薬無化学肥料の農法だが、自然農法は、土を耕さなかったり、あまり堆肥をやらない独特のやり方で土作りをする。自然農法は、しかし、センスや感性が必要で、ただの放任だと作物が取りにくい。主に雑草を用いて、堆肥をわざわざ作らない自給農法は、有機農法より自然農法に近いが、確実に作物を取るということを重要視してデザインされている。

 

オーナーは農業が市場や国の貿易の理屈に支配されていることに絶望していたが、試行錯誤の上で、それらに左右されない自給というあり方を見出した。農業は、利益を得るためにある程度以上の規模がいる。規格にあわせないとお金にならないので、その分堆肥や管理も増える。

 

しかし、農の苦労とされているものの多くは、実のところ、商業農業の苦労なのだ。自給という規模なら、市場に合わすための無理や矛盾が消える。肉体的・精神的疲労が明らかに違う。そして、単に自給農は負担軽減なのではなく、楽しみ、充実そのものとして関わることが可能だということがわかった。

 

苦しい労働をした対価で遊んだり、いい時間を買うのではなく、はじめから疲弊しない充実した時間のなかにいる。食べ物を直接生産するので、その状態を続けていける。労働や資本主義の矛盾から「イチ抜けた!」ができる。そしてこの実践は、自分が生きていく暮らしの外枠を自分がデザインする主体になっていくリハビリになる。

 

人が交流する場づくりをするだけでは自分に足りなかったのは、自分自身がリハビリする場であり体験だったということがわかった。

 

生きていくことは、終わりなくリハビリをしていくことのようであるなと思う。そのリハビリは、苦痛なリハビリではない。今の自分の状態に適切なリハビリを用意すると、時間は充実として感じられる。そして人は更新され変化する。変化をすれば、またその状態に対して、新しいリハビリが存在している。それを探し、たどり着く。その繰り返しだ。終着点はないともいえるし、リハビリの状態を探し、たどり着くプロセス自体が既に終着点であるともいえるだろう。

 

当事者研究、オープンダイアローグなど、話しの場をつくること、学びの場をつくることは、そのリハビリをする場を作っているといえる。

 

変化のプロセスは、恐怖や緊張によって停滞させられる。何かを義務として感じたり、想像上のあるべき姿と自分との乖離が恐怖や緊張をおこす。変化を停滞させるようなものを見つけ、整備・メンテナンスして、停滞を無くしていく。

 

思考や自意識は機械であるというのが僕の認識だ。それらは、更新していかないとずっと同じことを繰り返し、それが停滞の原因になる。更新するためには、そのシステムを一旦破綻させ、新しく再セットアップする必要がある。それが学びだ。機械は生命ではなく、気のめぐりでもなく、生きていないから自己更新しない。

 

固まった反応と認識のシステムに対し、それが破綻をおこす新しいものとの出会いを整える。それが学びだ。既知のものの延長ではない新しいものと出会う。そのことによって、システムの更新がおこる。