降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

エンパワメント 内在化したものを取り除く

学びは、まず生きものが持っている自律的な更新の働きに基づくものであると思う。自律的な更新の結果としておこることは、エンパワメントだ。だから学びの結果、エンパワメントがおこる。

 


それは試験後は忘れる丸暗記のような辛い作業をしていい結果が得られるという感じではなくて、やっていること一つ一つに意味(次への繋がり)が感じられ、その結果として何かがまた生まれてくる。それがまた次へつながる。その運動の中にあるとき、達成自体の重要性は薄まり、過程の充実がある。結果や達成は、直線的に向かうべきゴールとしてではなく、充実の自然な副産物としてある。

 


エンパワメントは生きている間終わりなく続く。刻々と変化する状況のなかで、気のめぐりを維持し、勢いを取り戻す。水路を整備していくようだ。自分のなかの水路、そして自分の周りの水路、そしてその周りの水路。終わりがない。だがそれは苦労ではない。現在の気のめぐりの状態が少しでも良くなることは、そのまま喜びとして感じられるからだ。

 

当事者研究、リフレクティング・プロセス(オープン・ダイアローグ)などの学びの場はエンパワメントのための場だ。自律的なエンパワメントの働きが回っていくようにする。自分たちで水路整備をする力、調整する力を身につけていく。

 

人間の場合は、内在化した規範がエンパワメントを阻害する。一旦頭の中に出来上がった反応のシステムは強い自己保存の動機を持つので、放っておいても変わりにくい。

 

本来エンパワメントのサイクルが最も自然にまわる状態で、反応のシステムもセットアップされるべきなのだが、そのシステムは、危機状況に対する防衛として出来上がっている。生きものには豊かに生きる理屈よりも、歪んでいようが何が何でも生き残るという理屈が優先で働く。よって、エンパワメントのサイクルより、単純な危機反応の集積になってしまう。

 

そのこんがらがった反応のシステムを解きほぐす。解きほぐしまでできたら、あとは気のめぐりがセットアップしてくれる。エンパワメントのサイクルが巡るもとで、再セットアップされる。