降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

手をつけてなかった自由

いかにも春という感じの草が庭にも生えてくる。

 


庭のミツバは去年の夏の干ばつで全滅したのか、芽は見当たらない。ミツバかと思った発芽はセロリだった。セロリも一旦タネが落ちれば野良生えを繰り返すタイプ。コリアンダーも出てきた。

 

畑では腹にたまるものを作る、というのが糸川さんの自給農法の哲学。作ってたら作っていたで別に畑のハーブを見ても何か言われることもなかったけれど。

 

糸川さんが何の重要性を指摘しているのかと考えると、やはり、自分の暮らしのあり方を規定している外枠に働きかけようとするのか、それとも今の枠組みはそのままで内側でやりくりしようとしているのかということなんだと思う。

 

芋や豆など腹にたまるものを自分でまかなうならば、いわばお金への基本的な依存具合を調整することができる。生活のあり方全体を自分の最適状態にずらしていきやすい。

 

ハーブ、香りのものなど、ちょこちょこしたものを作るのは、お金の節約にはなり、その節約分を他に使うということができるけれど、生活の外枠を変えるというよりも、決まった外枠のなかでのやりくりという感じだ。

 

自給の意識としては、自分の暮らしのあり方を規定している外枠自体に働きかけるということが重要だ。そのときの生きている感覚は、決められた枠組みの中で従わなければいけないと思っている状態とはまるで変わっている。

 

岩倉の畑の実習、5年目にもなると、年間参加者だった人たちが技術を身につけ、それぞれ別の畑を持つようになってきて、独立し、次にタネのシェアやコラボのあり方などを提案してきてくれる。

 

自分はもう決まっている枠組みの「参加者」なのか、それとも枠組み自体を自分がデザインする主体、戦略的に必要なものを得ていく狩人なのか。実のところ、作物づくりがある程度できるようになること以上に、その意識の変化が重要であると思う。

 

働きかけ次第で、状況はまるで一変する。自分に最適化した状況をつくることができる。誰かの枠組みでやっているときは、働きかけについてもその枠組みの範囲内でしか融通が効きにくい。だが、ある程度独立し、自分の枠組み、自分の媒体をもっていくと、二次元だったものが三次元になるぐらいの変化がおこる。まるで手をつけてなかった自由の存在を知り、その未開拓の資源、可能性の大きさに驚く。