降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

リアリティ 「明日」に支払う代償

「成長」した暁に、本当の自分になり、本来あるべき体験ができるという考え方がある。自分なりに人の変化を確かめてきた結果、僕はそのようには思わなくなった。

 


深刻なトラウマを抱えた人が「回復」に長い時間かかる。その回復までの期間は、どちらかというと残念な時間なのか。

 

「成長」途中で死ぬのは残念なことなのか。一般論ではそうかもしれない。しかし、個人の生の充実は生きている時間が短いとか長いとかは関係ないのだ。

 

生の実体は死ぬまでずっと途中にある。その過程において、深いリアリティと繋がり、そのリアリティを生きるならば、心は充実する。

 

今自分が生きているリアリティがある。生が虚ろに感じるなら、今知っているリアリティでは不十分になったということだ。より深い実感、より深いリアリティを探していく。より実感を伴う言葉、体験を探し、確かめ、意識に汲み上げ、より深いリアリティにつながっていく。木が根を下ろすように、深いところに水はある。

 

前にも書いたけれど、心臓の弱かった遍路さんが歩けた2キロと、ハンディが少ない人の2キロのリアリティの深さは違う。それぞれの人にとってのリアリティがある。限られていれば限られているほど、潜在的に体験できるリアリティの感覚もまた高まる。

 

深いリアリティを失うのは、目先の利益や恐怖の代償として、自分の実感の深さを犠牲にし、差し出ていくからなのだと思う。だから逆のことをやっていけばいい。より深いリアリティの方を大事にしていく。それを感じ、そのリアリティで動く。そのことは、多分、世間一般的な「幸せ」を安定させ、不動のものにしていくこととは、矛盾することが多い。

 

生きるために死にながら生きる。リアリティを引き換えにすればするほど、心は死んでいく。うまくいっているときはそれでいい。だが、潜在的には誰もが、些細なことで、人生ゲームのマス目の外に出てしまう。マス目の外に出たとき、もはやリアリティの深さ以外に割りに合うものはない。

 

より深いリアリティを確かめ、探しあて、それを生きていくことによって、生は充実する。明日、来週、来月、来年まで待つ必要はない。どこかへいく途中のこの生のひと時ひと時に自分で感じられる限りの最も深いリアリティとつながり、妥協なきリアリティを生きる。それで心は救われていく。

 

自分の本当にやりたいことは、考えつく限り最悪の死に方をするとき、何が後悔されるかでわかると思う。死は他者であり、コントロールできない。にもかかわらず、ギブアンドテイクで、コントロールしようとする代償が、リアリティなのだ。

 

明日の生、10年後の生、50年後の生まで「安全」「確実」に幸せしようとするとき、リアリティは失われていく。だが、その意図が全く裏切られた時、死のコントロールができないことに直面した時、リアリティはまた顔を出す。

 

あと10秒しか生きられないなら、その10秒に最も深いリアリティをぶつけ、生きる。心はそれで充実するだろう。「成長」まで待つ必要はない。「達成」も過程を充実させるための方便でしかない。今、この過程に自分のより深いリアリティを汲み上げて生きる。奪われたものが多くても、その分だけリアリティの凝縮性は高まっている。