降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

場の整い

こころゆく話しの場は、どのようにできるのだろうかとずっと試行している。

 


自分の求める感じが成立するために必要な要件の一つは、発散の場ではなくて、学びの場であることだと思っている。

 

更新していく場であること。自分の捉え方、考え方、反応の仕方ということを含めて、見ていける場所であること。それによって、場が健康的に持続的になると思う。

 

前も書いたけれど、相手の話しを受け取った瞬間の初動の反応、認識を観察することを大切にしないと、話しが聞かれている状態にならないなとも思っている。

 

年間を通した当事者研究やオープンダイアローグ研究会は、同じ話しの繰り返しにならないため、そして自分の自動的な反応や認識に観察を入れるための設定だ。

 

心が本当に満足するのは、聴かれたということ自体ではないかもしれないと思う。聴かれている、尊重されているという場の整いがあり、その上で気づかれたり、流れ出てくるリアリティがあり、より深いリアリティに自分がたどり着くことによって、満足しているのではないかと。

 

聴くということは、場の整いを手伝うということで、「聴いている自分」が直接場を変えているわけではない。「私の聴き方」に意識が行きすぎるけど、場の整いと考えるなら、もう少し自分のあり方についての意識が変わってくるのではないかと思う。

 

どんな場所でやるか、どんな時間にやるか、どんな人とやるか、何人でやるか、全てが場の整いに関わることだ。

 

そしてその人の信念ですら場に影響する。「話しを聴かなければならない!」と自分に強く課している人は、その雰囲気が出るし、それが場にそうじゃないといけないような空気を漂わせもする。

 

実は違和感を持っていて顔に出ているけど、そのことに本人は気づかないということもある。自分に意識を持ちすぎると、多分、場の整いというところからはどちらかというと外れていく。