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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

初動の認識 対話が成り立たない理由

アズワン鈴鹿コミュニティは、「当事者研究」で、対話の成り立たなかった状態から対話が成立する状態をつくりだすことに成功した。

 


一旦コミュニティ的な集まりを作っても、距離が近くなって他人行儀に限界がくると、途端に人の行動や言動が許せなくなる。一旦こじれれば解きほぐすことはもうできず解散や停滞、がよくあるパターン。

 

これを乗り越えるためには、人にあった瞬間、言葉を聞いた瞬間、状況に出会った瞬間に、自分の認識のプロセスがどう働いたかをみる観察が必要だということがわかった。「〜は、〜である」が自動的に頭のなかで決まり、その時もう結論が出ていて、反応がきまってしまう。そしてその反応は、一旦出たら後はストレスを抱えたまま我慢する程度が精一杯。

 

そもそもの反応が出るからくりが観察されると、頭のなかできまっていた「〜は、〜である」が成り立たなくなり、初動の反応自体が消える。

 

鈴鹿コミュニティから京都に帰り、普段の生活をしていると、自分がそれをできているというわけじゃないけど、観察を日々の営みに取り入れている鈴鹿の人たちとの違いの大きさがよくわかる。

 

相手が何か言った瞬間、ただちにそれは自分の頭のなかのそれであると認識し、感情的な反応がおこり、自分の認識の話しをはじめる。

 

ちょっと待とうよと思う。自分は相手の言葉をどう認識したのか、相手はどういう意図で言おうとしていたのか、まずはそこからいかないと、反応は観察されず、いつまでも繰り返される。

 

この初動の反応に対して意識を持たないと、話しはお互いを変えていくキャッチボールじゃなくて、同意のない千本ノックを受けている感じになる。

 

鈴鹿の人たちは、その観察に間を一拍置く。話しをしていても、ただちに否定に入るとかしないし、それはこう思うべきだとか押しつけない。延々とした持論の展開にもいかない。

 

聞かれた話しは、話したほうにも観察される余地を残され、不完全燃焼のための沢山の一酸化炭素が出てくることもなく、消化されていくプロセスに入る。

 

鈴鹿は、この観察が日常的に続くように仕組みを作った。コミュニティ内に合宿ができるスクールをつくり、平日夜もゼミがあって、興味関心が持続する環境が作られている。

 

これからやる当事者研究の集まりは、そこまで大きな仕組みを整えきれない。限られた条件でどこまでできるのか。

 

オープンダイアローグの手法や、演劇的手法など、有効な手法を自分たちのカスタマイズでやっていくというかたちを探る。