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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

京都文学フリマ お墓に語りかけること

みやこめっせでやっていた文学フリマに行って来た。


文学フリマがなんであるかよくわからないまま、とりあえずフリーターズフリー栗田隆子さんと修復的司法をやっている小松原織香さんがブース出しているというのでそこだけでもと。

 

行ってみると、自作のファンタジーノベル?みたいな本が多かった感じ。夕方から仕事だったので、ほとんど通り過ぎながらみるだけだったのでもっと色々あったかもしれないけど。

 

途中で名前を呼びかけられた。大学の研究室で一緒だった稲垣くんに久しぶりに会う。「大阪編集教室」というところのブース。そこでは、プロのライター育成や、受講生が講座で半年なりの時間をかけて、小説なりエッセイなりを作り、小冊子にまとめるみたいな、そんな感じのこともやっているそうだ。

 

稲垣くんは、もう卒業生なのだけど、講座の人とはその後も繋がりがあって、今回も売り子として手伝いに来ているそうだ。

 

京都自由学校の詩と朗読の講座とよく似ていると思った。こちらも半年を通して自作の詩や表現を作っていき、最後に冊子にする。合宿もあったりする。ここで、僕も同期の受講生と仲良くなって、今でも関わりがある。

 

自分の表現を通して関われる場所というのは、特殊な場だと思う。詩、最初は恥ずかしかったりするわけだけど、普段接する感じではなかなか見えてこないその人の側面がお互いに見える。また恥ずかしい分、それをシェアするということが信頼感につながる。

 

竹内レッスンについての投稿で、少し前にも書いたけれど、自分がどう関わるかということによって、目の前の相手に対する感じ方が変わってくる。錯誤みたいで面白いけど、涙が出るから悲しいのか、悲しいから涙が出るのかの逆転のような。

 

真偽のほどは知らないが、吊り橋効果で、揺れる吊り橋の向こうに誰かを立たせていて、吊り橋を渡らせると、吊り橋が怖かったんじゃなくて、相手が魅力的だからドキドキしたと感じるとかいうが、そういった効果はあるだろう。

 

自分が傷つくのを恐れ、防衛的に声をかけるならば、そのことによって、相手に対して自分がどう感じるかということが決まる。自分がどんな声で声をかけるかという自分の方のあり方で、相手から感じられるものが変わるのだ。

 

お墓の前で、故人に語る時、科学的に本当にその人がいるかどうかということだけでそのことの意味を決めることはできない。全幅の信頼、親愛、心の底の吐露を「本当に」するということで、実際のその人とやりとりしているのと同じプロセスがおこる。

 

心の中の世界は放っておくならば時間の止まった動かない世界だ。その世界のなかに自意識は住んでいる。感じ方はその世界で決定されている。その世界を変えるにはどうしたらいいのか。

 

例えば、母親と関係性が悪いまま母親が亡くなったということがある。母親イメージは、自分の足りないところを責めるまま、心に居続ける。お墓には実際に母親の骨があったり、あるいはそうでなくても、お墓ということ自体にそこに本当にいるようなリアリティがある。

 

リアリティ、あたかも現実のような感じは、作ることができる。
お正月に、周りの社会が本当に新しくなったように感じる。実際には別に大晦日が終わりとか正月が始まりとか、勝手に決めているだけなのだが、みんなが一斉にそれをやると、「本当に」そんな感じがしてくる。科学的事実と、心の現実や心の理屈は別のもので、生きていることは、実のところ後者の方に大きく影響されると僕は思う。

 

リアリティを伴い、感情が揺れている時は、心の中の止まった世界が変わる状態にある。お墓まいりや声かけによって、母親イメージを呼び出し、そこに新しく関わる。生前、そうでありたかったように関わると、お墓は何もこたえなくても、あたかも本当に話しているような感じになり、実際に自分の内部の母親イメージが変わっていく。責めるイメージが、応援してくれているようなイメージになってくる。心の中の世界が変わったのだ。心の中の世界は、情動を伴う体験によって更新される。

 

これはゲシュタルト療法のホットシートという手法とも通じる。架空の相手を想定したシートなり椅子なりを用意して対話する。もちろん本気でやることが大事。本気度で体験されることが変わるから。

 

半年を通した詩や文章の講座(表現ということだと思うけど。)で人が仲良くなるのは、自分の関わり方で相手に対しての感じ方が変わるということもあると言いたかったのが長くなった。

 

人と人との関係性は、通りすがりとか、もう決まっているやりとりでは深まらない。情動を伴う関わりがいる。そうでないと心の世界、感じ方の世界は更新されない。

 

また講座で学ぶ同士という役割は、講座の外の規範を一旦白紙にする効果があるので、年齢の上下や社会的地位などに関わり方が決定されてしまうことを防ぐ。田舎で、中学校の一個上の先輩と、何歳になっても強い上下関係が続くのに、大学の同期は年齢が違ってもタメ口のままでなぜかお互い問題ない、みたいなこと。この白紙にするというのは大事なことで、これを設定に入れてないと、世間的な上下とかが無意識にそのまま持ち込まれ、ずっと続く。

 

「大阪編集教室」は、京都自由学校の詩の講座よりも、よりビジネス社会でのスキルを身につけるという体裁や仕組みもありつつ、詩の講座的な表現を通したものも含んでいるという意味で興味深い。この境界的なあり方は、ナリワイのヒントになりそうな気がする。

 

その後、栗田隆子さんと話しをして、『対話の土壌をか・も・すワークブック』と『「呻き」「対話」「社会運動」』を買う。大阪編集教室のブースでは、『花ぎれ 第67号』という受講生のみなさんで作られた冊子を買う。その冒頭の詩は稲垣くんが書いていた。