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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

なやカフェへ

久しぶりになやカフェへ。

 

不思議な時間がながれる【なやカフェ】 - NAVER まとめ

 

明日明後日もやっているみたいだけれど、僕が行けるタイミングは今日だけだった。
なやカフェは入ると空間の質が外の世界と違って、時間が止まっているように感じる。店内には石臼があって、それで自分でひいた粉でそばを食べるということがこの3日間はできる。僕はひかず、見にいっただけだったけれど。

 

この世界の片隅に」の話題が出て、マスターのゆうきくんは友人に見て面白くなかったら私が返金するとまで言われたそうだ。僕は数年前に原作を立命の永橋為介さん(ためさん)に貸してもらって知った。

 

ためさんは、吉野川住民運動をやっていた姫野さんが京都に来てシンポジウムをやった時に出会った。僕はためさんの四回生ゼミになぜか参加させてもらって、林竹二を知って、西川勝さんのパッチング・ケアの概念に出会って、こうの史代も知った。

 

ためさんの四回生の卒論ゼミでは、ためさんと生徒の関係性にびっくりした。卒論ゼミで、ためさんからふって、恋愛相談していたと思うと、ぐっと研究に焦点を絞った高度な話しになる。ゼミ生は、これは先生の言ったことだからなどという余計な遠慮がない感じで、自分の感性をそのまま出す。そしてその感性が研究に鋭さを与えているのが感じられる。

 

こういう場を見たことがなかった。ゼミ生は、どこから来たかわからない僕のようなものもフランクに受け入れてくれた。

 

こういう雰囲気を含めて、これはためさんが作った場なんだと思った。ためさんはNPOなどで、ファシリテーターもされていた。ためさんのゼミに参加して、関係性のなかで人が生きるということがよくわかった。これは今の僕の学びの場のイメージの原型になったと思う。

 

たまにある出会い。振り返れば、それが一度に多くのことをもたらしてくれる。状況が動かないと思われるなかでも、何とかやれることを積んでいくと、そういう出会いにつながる感じがする。でも出会いを前提にすると疲弊する。なくてもやるつもりでやっているとくる感じだ。

 

ゆうきくんは、ある家づくりを仕方ない状況でやめたところに別の家づくりの話しが来たそうだ。世界と自分の状態は呼応していると思う。

 

自分が考え、見て、選択し、展開を生まなければいけないのではなくて、おこることは自律的。今この時も世界と自分の間には呼応があり、既に自意識ではとらえられない何かがおころうとしていると意識を変えると、自分が何かをおこさなければいけないという強迫は弱くなる。意識は目の前のもの状態に敏感になり、その動きをより捉えるようになる。意識による強制管理が弱まると、体や心が自律的に自己回復的な運動をはじめる。

 

だが同時にこの新しい動きに対する自意識の抵抗がある。だから何かがおころうとしていると感じる時、呼応を感じる時には踏み込む。自意識はいつでも安全なパターンに入ろうとするけれど、それが結局牢獄でもある。

 

ゆうきくんが石臼の話しをしてくれた。粒をたくさん入れすぎると、砕けてないまま粒が外にでてしまう。石臼を使っているお店などで観察すると、お店の電動のやつでも一粒一粒、ポロポロと臼に入っていくようになっていたそうだ。たくさんを一度にやると、何度もやり直しをしなければいけなくなる。回すのが早すぎても砕けない。

 

よって、粒はちょっとずつ入れ、回すのもある程度ゆっくりが一番効率的だということ。早く多くやるのが効率的ではなく、少しずつゆっくりやるのが効率的だというのが面白い。

 

僕はバイト先からいつも落ち葉をもらう。アスファルトの上では落ち葉は単にゴミだ。アスファルトに覆い尽くされた場所は、車輪には「効率的」でも他の面ではどうか。別に掃除しなくても違和感なく、そのまま土に戻り土を肥やすはずだったものがゴミとして大量にでて来て、その処理のために使う膨大なエネルギー。

 

硬いアスファルトの上を歩くことによる、足や腰へのダメージ。僕は四国遍路をやっていて、痛くなった足もアスファルトの横の側道の土の上なら痛みがやわらぐのを実感した。でも足腰に故障がくれば、それにまたお金を払うわけだから資本主義的にはいいのだろう。

 

資本主義の「効率化」は、そこに重なる様々な文脈を無視して成立している感じがする。周りのものの停滞とか故障を引き起こしているのなら、全体で見たとき、それは人にとっての効率化だろうか。

 

ちょっと年配のご夫婦が店に来られて、すっかりお腹をすかせていたそうだが、粉挽きに30分ぐらいかかると言われ、ええ、と言いながらも粉挽きにかかる。交代でどちらかが回し、どちらかがポロポロとそばの粒を入れる。同じリズムで、ずっと繰り返し回す。ゆうきくんは、歌が生まれるのがわかる、という。

 

何かの用に使える時間は、何かの用に使えるはずだからという理由で、邪魔してはならなくなる。だが、もう他の何の用にも使えない時間は、何を話してもやってもいいから、人はそこでようやくお互いに自由にならないだろうか。他のことがやれないという自由によって、役立ちや有用性から離れたやりとりが生まれ、実のところ、それが必要だったりはしないだろうか。

 

必要な自由は、既にあるもの、支配的なものを打ち消すことによって生まれる。既にあるもの、支配的なものによって、自分も生きているのだけれど、同時にそれによって支配され、新しい世界との関わりを奪われる。

 

だから、次の状態に行こうとするときは、外側のものであれ、内側のものであれ、支配的なものの統制が効かなくなるような状況を作りだす。日常を離れ、旅に出るのは、そういう意味がある。

 

話しの場の自由もそうだけれど、お互い自由にしゃべりましょうね、では自由にならない。結局それは、それまでと同じ規範が続いているだけで、しゃべりの場における強者が支配する。飲み会の場と同じなら、わざわざ話しの場をつくる意味が感じられない。
既に強いものは何か、支配的なものは何か、というところを打ち消す必要がある。

 

だけれど、それまで強者の人はそういう規範は当然嫌いなので、それは自由じゃないというだろうし、不当だとすら感じるだろう。オープンダイアローグで、途中で全体の話しの流れを一旦切り、リフレクティング・プロセスをするのは、支配的な流れを打ち消す意味もある。

 

そもそも話しの場というものが、全く自由ではない。それがスタートで、ならば支配的なものをどう部分的、限定的に打ち消せるか、という話しになってきて、ようやく生産的になっていくように思う。

 

つらつらと思いつくままに。