11月活動報告
10月からはじめて2回目の活動報告です。
5日
大村はまさんの教え子の苅谷夏子さんお話し会。はまさんの普段のふるまい、何かに対する対応や反応の話しが時々出る。
個人的にはそこが一番考えられて面白かったかもしれない。何をどのようにとらえ、どう対するのか。凝縮されたものを知っていくてがかりになるように思う。
8日
働きたいおんなたちのネットワークの吉田秀子さんに会いにいく。出会って11年ぐらいになる。
講演とワークショップの企画を宇治ではじめたころ、近隣へのチラシ置きで事務所にお伺いしたのがきっかけで関わりをいただくことになった。自分の話しが通じて手ごたえを持って聞いてもらえている感じがあり、別に何かを相談するわけでもないけれど関わりのなかのやりとりで支えられた。何が全うで何がおかしいかを瞬時に判別し、評価する感性が気持ちよく、吉田さんの話しはずっときける。今は介護事業の立ち上げに動かれている。何か面白い接点をつくれたら。
10日
自給農法を学ぶ場、京都のらびと学舎の打ち合わせ。自給農法の考案者の糸川さんが講師として来られなくなったここ2年。またそれ以外にも様々な変化を受けて、あり方を模索中。
11日は
カフェパランのmorning zine circleに。今回はジンフェスの運営やお金集めなどの話し。ジンフェスはやりたい。クィア食堂の方などに話してみたら展開がおこるだろうか? マイノリティが自分たちをエンパワーする環境があればいいと思っている。
そことも関わるが、当事者研究大会が気になっている。(今年のは終わった。来年の実行委員を募集しているそうだ。)もし様々な当事者が自分たちの研究を発表する場が常時用意されるような環境になったら何がおこるだろうか?
研究ということが何か大学とか研究機関の専売特許みたいな見方もあるが、研究機関にいなくても、個人でも一点集中でそこに関しては時代の先端に行っている人はいる。
それを応援し、その実りがシェアされる場があると、情報も生き方の多様性も創造されるのではないか。ここはやったら面白いうねりになりうるのでは。
学びは既にできた施設や用意された媒体でしかできないものではない。学びの主体性を普通の人が取り戻すという意味でも意義が深いと思う。
12日
京都橘大学でオープンダイアローグのワークショップ。センテンスの赤阪さん夫妻からご紹介を受けた。
自分ではつながっていなかった場。ワークショップの内容に期待していたというよりは、オープンダイアローグをやっているところや人に関わり、何かにつなげられないかというのが動機として強かった。
主催者の滝野さんとは関われそうだ。またここでカフェコモンズで第二木曜に会をされている吉本さんと会う。友人の紹介で2週間後に会う予定だったのだが、この場で居合わせ、色々話しができた。
オープンダイアローグといい、吉本さんといい、自分だけではつながらないところからつながりをもらうのは本当にありがたい。
このワークショップ、しかし予想以上の体験ができた。自分がオープンであることで場と自分に何がおこるかを鮮やかに体験した。オープンであれば気がめぐる。
ちょっとした自分自身の抑圧がどれだけ気勢を削いでいるのかよくわかった。この体験は次につながるベースになるだろう。
14日
知り合いの田代順さんが来京し、本町エスコーラを紹介させてもらう。田代さんは武術家、臨床心理士で、オープンダイアローグのリフレクティング・プロセスを使ったワークを工夫されている。
田代さんは3年前、うちでやった「ナリワイをつくる」(著 伊藤洋志さん)読書会に渡邊あい子さんの紹介で来られた。
エスコーラの佐々木さんにライフレビューをしてもらって、それをリフレクティング・プロセスを使って対話すると何がおこるかをやった。
本人も気づいてなかったようなことが発見され、また周りの人も近くにいても知らなかったようなことが確認され、面白い場だった。次回の対話の場で、リフレクティング・プロセスをやってみようという流れに。
16日
栗原康さんお話し会。伊藤野枝という人からどんな視野がひらけてくるのかという話しだったかと思う。村上潔さんも来ていて、フェミニズムと野枝との距離の話しも興味深かった。
マイノリティが集まり、自身をエンパワーする。それはサバイバルとして何もおかしくないあり方だ。と同時に、団体を維持し、自分たちの取り分を確保しながら、拡大再生産していくということ自体をながめると、他のマイノリティでない団体と変わらないという様相があると思う。
どれだけ自分たちのところに外から持ってくるかをそれぞれがやってきるから生きにくい社会になっているということもあり、難しそうだ。個人的には、自由というのはその性質として、維持とか確保とかと折り合いが悪いように思う。
2ヶ月ぶりにからだとことばのレッスンへ。野口体操と竹内レッスンをベースに、体を揺らしてほぐしたり、宮沢賢治を朗読したりする。
ただそこに書かれている言葉を発音するのではなく、そこにあるものとして出会いながら読むと体験が変わる。読んだあとに、物語の世界を本当に体験したような感じになっている。ここでも自分のあり方で体験が変わるというのは興味深い。
マルティン・ブーバーが神が実在することをどうしても感じとれず、本気で絶望の言葉を神になげかけたとき、その瞬間実在を確信したという話しを読んだ気がする。それを思い出した。
体験は外部にあるようで内在しており、特定のフィルターに光をあてるように、呼びかけ、動くならば、その体験をするのではないだろうか。
22日
井上老師の京都禅カフェ。自分で悟りを得たという人ははじめてみて、とりあえず行ってみた。言われていることは一貫性があった。認識が完全に脱落した状態は、観察者がいないので体験すらできないが、その状態があることを紛うことなくはっきりと知ることで、自分が属し、支配されていたリアリティの根拠が瓦解する。
それ自体は直接体験できないものを間接的に間違いなく知るという構造は何にたとえればいいのか。「もし自分がAであるならば、このときは必ずBになる」という式がどこからみても間違いないかたちで設定できるなら、「Aであれば必ずBになるはずであるのにBになっていない」→「自分はAではない」ということになるみたいな感じだろうか。
なろうとするとむしろ遠ざかるというところなど、自分がこれまで確かめてきた人間の変化のあり方と通じるところがあった。
24日
オープンダイアローグの会でお会いした吉本さんとお話しし、僕も年明けのカフェコモンズのお話し会で話しをするような流れに。
今後の予定としては、28日夜はちいさな学校で、29日昼間はみけねこ食堂で哲学カフェ。12/1は熊倉さんの三田の家のお話し。
オープンダイアローグ、観察する対話、当事者研究、インプロなどを位置づけ、人が更新していく場を作っていきたい。