降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

報告 11/14 哲学カフェ 自立について第2弾

<11/14 ちいさなおはなし会(哲学カフェ)@本町エスコーラ>
先日10日に続いて、もう一回「自立」をテーマにやってみました。

「観察するための対話」をやりたいという思いで、ちいさな学校や本町エスコーラでここ何ヶ月か試行を続けてきました。


昨日は「自立」をテーマにやりましたが、拡散的にならず重要でありそうなポイントに焦点をあて深めていくことと、吟味のための様々な視点が豊かに出てくることのバランスがとれているかたちですすんだと感じられ、グループをつくることの有効性をあらためて実感しました。

 

ちいさな学校でも前回同じテーマでやりましたが、個人的にもさらに見たいことがはっきり見えてきたように思います。今回理解を深めたのは、ポジショニングとしての「自立」という見方でした。

 

「自立」という言葉は、外部からの干渉をとどめ、自分のやりたいことをやる、自分のありたいようにあろうとするときにも使われます。親(の干渉)からの自立、のための経済的自立などもそういう例かと思います。

 

一方で、他者から求められる自立があります。昔なら結婚して子どもをもって育てて自立(一人前?)みたいなことがあります。

 

外部の干渉や影響に対して自分がありたい状態をつくりだす。ほどよいバランスを自ら調整し、つくりだすための自立(=この場合は外部の影響の排除)がある。

 

そして既存の社会システムの維持のため、社会システムにとってのバランスをとるために、社会が個人に求める自立がある。

 

ここに共通することは、バランスの確保ということではないかなと思います。想定されるほどよいバランスを維持するために「自立」ということが関係してくる。

 

そして話しのなかで出てきたのが、相互作用をもたらす主体としての自立ということでした。相互作用が、自立にとって重要であるという視点です。
 
他者の干渉を排除するだけの「自立」は、あくまでどこかに向かうときの移行的な自立であり、自分が求める状態に対して十分ではないという感覚があるわけです。

 

たとえばドアをつくり、鍵をかけて自分のしたいことをするという自立だと、外部から得られるものも遮断している。ドアを開けたり閉めたり、あるいは出かけていって必要なものは得てくる、得られる状態にするということが自立ということになるのではないか。

 

自分が適切なバランスをとるためには、孤立するのではなく、外部とのほどよい関係性が必要である。影響されることをただ排除するだけでなく、必要な影響はされ、相互作用する主体としての「自立」です。

 

さらに面白い視点が出てきていました。たとえば「来年のために保存食を作らなければならない」となることは「依存」ではないか、というものです。世間的には、食えるものを用意しているんだから、むしろ自立的であろうと思われそうなところ、自分の感覚としては「依存」であると感じられるということなのです。

 

物質的に食料をためることは、独立性を維持することにつながるでしょう。ですが、心理的に「〜であれなければならない」というものが生まれて、そこに支配されることは「依存」をつくることではないか。物質的な依存と、心理的に支配される状況をつくるという二つのことがあって、後者は無視されがちであるけれど、その方にとっては、後者は自分の「情熱・パッション」「テンション」などを保つことに負の干渉してくるものだという感覚がある。何かの媒体に心が支配されず、「真ん中」にいることが重要である、というふうにも言われていたように記憶しています。

 

前回の哲学カフェでも、自立とは、自分の立ち位置を知ることではないかという指摘がでました。物質的なバランス関係が物質的な干渉関係をつくると同時に、心理的に支配し、干渉をもたらすものからもほどよい距離を保つ。

 

他者の干渉を全て排除するような緊急処置的な、あるいは移行的な「自立」から、ほどよく影響され、相互作用する主体同士としての「自立」があるという認識。後者は、自然と自分の更新がされていく自立であるといえるかと思います。

 

そして物質的な面だけでなく、心理的に支配されるものをつくらないという自立がでてきました。

 

物質的、心理的な他者との関係性、そして心理的な考え方や概念との距離がとれるとき、「自立」的であるといえるのではないか。つまり、「やるやらない」「できたできない」などではなく、ポジショニングとして「自立」ということがあると考えた時、「しなければいけない」というものを心につくることがもはや適切なポジショニングではなく、自立的ではないということがみえてきたように思います。

 

しかし、何かを「しなければいけない」という強迫はすでに内在化しているものであり、それにアプローチし、消していく必要はあると思います。だから観察するための対話をやっているのですが。

 

自立があるとかないとか、しているとかしていないとかいうのも、何か外側の価値に強迫されている状態です。自立という言葉にさらに心理的負の干渉をされるようになっては本末転倒ですが、自立「的」であるためにはどうなっていったらいいんだろうということは、吟味する価値があると考えます。

 

これまでの対話から、自立というのは、ポジショニングがほどよいこと、立ち位置のバランスがとれていることとと言い換えられるのではないかと思います。
次に、では何に対してのポジショニングがほどよいのか、バランスがあるのか、ということになってきます。

 

何に対してというのは、「自分の求め」に対してということになるのではないかと思います。孤立した「自立」ではなく、他者との相互作用を通して更新していけるとき、自立「的」である。社会的な関係性、自分のうちの概念に対する関係性において、必要な更新がはかどるということが、ひいては「自分の求め」ということになるのではないかと思います。

 

更新につながる相互作用がおこる過程のなかにいることが自立「的」である。探っていった結果、「自立」とは安定した地点、完成された地点にあるのではなく、変容のプロセスに入っていること自体のほうにあるようでした。完成地点ではなく、途中の状態をどうつくるか、途中の状態でどうあれるか、ということのほうに自立「的」であることの核があるのです。

 

違う言い方でいえば、どのような状態であっても「既に自立している」ということがスタート地点になるかと思います。更新を求める自律性、自分のなかにある自律性がある。それを否定して、外から押し付けられた「自立」に自分を失うところから、その自律性が働き出すような、展開しはじめるような環境を設定し、そこに立つことが、自立「的」なあり方といえると思います。

 

環境を設定し、必要なポジションを自分に提供するまでは、自意識の仕事ですが、必要なポジショニングができたとき、自分は主体となって、自意識の更新がおこっていく。主体とは、「変容していく運動性」であって、「私がこうする」という私としての自意識ではありません。

 

自意識が管理するものとしての「私」から「変容していく運動性」としての私へのアイデンティティの移行がすすんでいくとき、「私がこうしなければ!」という強迫はとれていき、更新はよりスムーズになっていきます。

 

完成は派生的な結果であり、文脈を区切った部分的なものに過ぎず、そこを本当の完成だと錯覚しとどまるならそれ自体が「自立」的ではないのかと思います。その時点の自分に必要な過程に気づいておらず、過程に入ろうとしていないからです。

 

逆説的ですが、自立「的」であるためには、私は「既に自立している」ということを知ることが重要になってくるだろうと思います。自分のなかに自律性がある。動こうとしているもの、展開しようとしているものがあると実感し、知っていくことがより自立「的」になっていくこととつながる。

 

より実感し、知っていくための環境を設定すること、設定した環境のなかで適切なポジショニングを見つけ、立つことは、生きている間、いつもいつまでも行われることであり、完成した地点にいない自分を否定することは、この自律的なプロセスを阻害するものであり、そのあり方が「自立」的ではないといえると思います。

 

次回は要望があったので、28日19時にちいさな学校鞍馬口で「親密さ」とはをやってみたいと思います。