報告 11/10 哲学カフェ「自立とは」
哲学カフェ、自立って何だろうということをテーマにやってみました。
聞いた知識ではなく、自分の体験、自分のリアリティに焦点をあてていく。経済的自立、精神的自立、色々使われるけれど、自立とは一体何なのか。
色々と意見が出てくる。
お金を使わなければ生きていけないようになっている社会の仕組みなど、自分を依存状態に陥らせているものを取り払えば自立できるのではないか。しかし依存といっても、都会は田舎に依存しているし、生きものは土にも太陽にも依存している。それらを無視して、果たして本当に自立などという立派なものがあるのか。あえて自立というならば、自らが立つポジションをみつけることではないのか等々。
今の認識を吟味していく。
言ってもらったことを換言し、確かめる。反駁とかしたりする必要は全くなく、言ってもらったことを更に明確に、自ら浮き彫りにしていってもらうのをサポートする。成り立たない構造でできていたものは、ただ純粋にその論理をその論理通りに展開していくと自然に吟味がかかる。人の諭しや説得ではなく、自分の吟味によって自分の認識、ものの見方、感情の反応は変わっていく。
外から「こうあるべきだ」と押しつけられる「自立」。あるべき姿と比較し、今の自分を否定してエネルギーを奪い、むしろ同じところにとどめる強迫観念としての「自立」がある。外に奪われ、自分がそれに規定されてしまうものとしての言葉を、自分が使う道具としての言葉に位置づけし直し、奪われた主体を取り戻していく。
自立とは「しなければならない」ものなのか。本当にそうか。
シンプルに考えてみる。自分が何か求めていることがあり、そこにたどりつく。それができればいいと考えるならどうだろうか。
そこにたどりつくための道筋がある。求めている状態を得るために、幾つもの道筋ややり方がある。一つのやり方がうまくいかなくても、自分なりのやり方をみつけて自分の求め以上でも以下でもないものを得ればいい。外部の規定ではなく、自分の求めに対して自分なりのアプローチを設定し近づいていく。そのことこそを「自立」的と呼べないだろうか。
既にあるもの、既にある選択肢のなかで、人に言われる姿に自分を矯正していくことが「自立」的だろうか。
自分の求めがあり、それを満たしていく。そのやり方は、自分のやり方でいい。人に言われたようにではなく、自分が進んでいけるあり方で進んでいく。それが自立のベースの心性ではないだろうか。その時、自分のなかに取り込んでいた無用なもの、外から植え付けられたものとの決別がされていく。
自分の心、身体の反応に強固に植えつけられている認識をどのように更新していけばいいのだろうか。話しのなかでそのヒントも出てきた。
自分の身体の実感を発生させ、実感を付随させた状態において再学習することが、古い植えつけを更新する。身体の実感が自意識を揺り動かす状態、今まであった自分のなかの秩序を圧倒するような状態のもとで、自分の求めるあり方を演じなおす。そのことによって、自己像は変わるようだ。「生き直し」「育ち直し」という作業は、自分が持っているリアリティを呼び起こしながら、それが焼き付けられたある時点に戻り、再更新しているのでそのように呼ばれているのではないかと思う。
(※人間を変化させる通過儀礼が、分離→境界(過渡期)→再統合という段階をふむというヘネップの三段階構造の理論を深化させたターナーは、その境界の段階において、個人は昔属していた社会にもこれから属する社会にもあてはまらない状態、リミナリティの状態になると指摘している。リミナリティは、自己卑下、隔離、試練、性的倒錯やコムニタスによって特徴づけられる不安定で曖昧な時期であり、コムニタスは、社会構造が未分化で全ての成員が平等である状態として定義される(←wikiから引用)。自己卑下、隔離、性的倒錯などはまさに自分のうちに既にある秩序を揺り動かすものだろう。そしてコムニタスという意味の強迫から解放された空白の場所に支えられ、移行、更新がおこるのだろう。)
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自給農法を学ぶことは、自分と世界との関係性を規定している認識の枠組みを再更新していくリハビリになると思っていた。お金や制度など、自分の外部に価値があり、それに感情反応、情動反応をともなわせて経験させると、身体はそのように刷り込まれる。それに対し、自給農法では作物を育てるとき、自分を軸として全てを位置づけし直し、体験し直す。
身体の実感を伴いながら経験すると認識は再更新される。より大きな実感、揺り動かしがともなう場合は更新もそれに比例して大きな変化がおこるようだ。
場の流れで、「怒り」と自立の関係性にも焦点があたった。怒りとは、身体の自律的な自助であり、それは状況を現状のまま留めるために、あるいは変えようとしておこる。
その意味ではコントロールしようとして怒りはおこっている。怒りという反応の結果として、ある状況が好転する場合もあり、怒り自体は全否定されるものではないが、コントロールするためにそもそも怒りが生まれているのに、怒りそれ自体は個人から自分のコントロールを奪うという矛盾した特徴をもつのが興味深い。怒りによって余計なストレスやパターン化した拒否行動、攻撃行動なども自動的におこる。
他人からみて怒っているのに、本人は自分が怒っていることに無自覚ということがあるという話しから、自分自身の「抑え」に無自覚であることが怒りを生んでないかという気づきがあった。一見、怒っている人は別に抑えていないだろうと思えるけれど、実際は「抑え」の存在自体に対して全く無意識であるからこそ、怒りが生まれ、たまっていくという場合は少なくないだろう。イラク人質事件に反応した非難の声などはまさにそれではないか。どれほどの「抑え」が知らない間に身体に刷り込まれていることだろうか。
自立は、まだやれるテーマだと感じ、来週もやろうと思っている。