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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

ワーク・イン・プログレス 発酵エネルギーを使う場

学びにとって、どのような場が適しているのか?

 

自給農法の考案者の糸川勉さんの肥料に対する考え方は、「常識」とはちょっと違ったものだった。

 

糸川さんは、枯れたりごく小さい雑草と土をチャーハンのようにまぜ、作物に寄せて肥料にするということをする。一般に、土のなかで分解される有機物は作物に対して有毒なガスをだすので、有機物を土のなかにいれるのは一律にバツとされる。

 

だがそれは規模の問題で、自然状態でも有機物が土に混ざるのはそんなに珍しいことではないはずで、チャーハンのご飯と具の割合ぐらいであれば、害は相殺され、むしろ分解発酵が促進されて栄養としてほどよい。糸川さんは一般にいわれているようなことを鵜呑みにせず、そのやり方を自分で確かめてきた。

 

糸川さんはそのやり方を教えてくれるときにこのようにも言っていた。「肥料をどこか別のところで作り、完全に発酵しつくしたもののやるというのは、エネルギーがカスカスになったものをやるのと同じ。自給農法では、有機物が分解していく発酵のエネルギー自体も使う。それが作物の育ちにとってもいい。」

 

春秋冬の作物は基本的に土の温度が高いほうが成長がいい。ほどよく土にまざり、発酵分解していく温度が作物の成長を促進する。

 

そして糸川さんは、その発酵の産物には、単に熱エネルギーだけでない何かがあるととらえていたふしがあった。単にあたたかいからだけではなさそうだ。それは作物の育ちの状態から感覚的に受け取っていたことだろう。

 

自給とはエンパワメントであり、同時にサバイバルだ。サバイバルなら世間の常識や学問に検証されたことしか応用できないのであれば不十分。空いたお腹で待っているわけにはいかない。自分に必要なことは自分で見つけていく。自分で感覚的に感じ取り、検証し、腹を満たしていく。全てのことには及ばないが、切実に必要な一点に対して、人間は学問の成熟を待つまでもなく、自らそのものを明らかにしていくことができると僕は思う。


さて、糸川さんが教えてくれた発酵エネルギーを使うというあり方が、学びの場でも通じるものがあるのではないかと思ってきた。

 

大規模な教育システムのなかで、確立した知識、完成された見識をもった「教える人」が、それを持たぬ人に伝える。だがそれは、「知識」としては重要かもしれないが、発酵が終わったあとのエネルギーとしてはカスカスのものが提供されているのではないだろうか。

 

学びとは、人が更新していくプロセスだ。一方、完成されたものというのは、変わらないものだろう。確立して変わらなくなったものを人に伝えるということは、本人にとっては自分の更新に関わらない退屈なことだ。その退屈なことを伝えられる人はやっぱり退屈だ。

 

国語教師大村はまさんが徹底的にマンネリ化、定型化を避けたというのは、一つには自分自身を更新させていくということ抜きに、学びの本質を生徒に伝えることはできないということもあったのではないかと思う。

 

面白いものとは、今ここで化学反応をおこし、変わりつつあるものだ。何がおこるかその当人でさえ知らない。その状態にある人は、それだけで化学反応を周りに伝染させる。

 

だから僕は、学びの場とは、自分自身が化学反応をおこしつつある状態になり、そのことを周りとシェアするかたちが理想的であるのではと思う。たくさん知っているか、知っていないかは、それほど問題ではない。自主ゼミと考えればいい。仲間同士で学びあいをしているとき、別にたくさん知っている必要もないし、絶対正しいことを知っている必要もないだろう。周りの人は、誰かが絶対的に正しいことを期待していない。

 

自分が言ったことにそのまま影響されてしまう不特定の相手を前提にするのと、ピアで学ぼうとしているときはそこが違う。鵜呑みにする不特定多数、通りすがりだから訂正できず責任をとれない不特定多数を前提にすると、自分自身が化学反応をおこしていく場が少なくなる。化学反応がおきている人にふれ、伝染されるのが重要な要素なのであれば、不特定多数を前提にした設定がそもそも学びに適した設定ではないと思う。仕方なくそうしているというだけだ。

 

大規模農業と大規模な教育のシステム。それに対して自給農と、自給的な学びというあり方があるのではないか。労力とお金をはらい、肥料をガンガンつくり投入しなくても、もともと持つ発酵エネルギーを利用すれば、省労力低コストで周りとともに作物(学び)は育っていく。市場の規格にあわせなければ売れない教育と、自らが更新という自分の必要を満たしていく自給的学びの違い。後者にとって重要なのは発酵エネルギーを利用する仕組みであると思う。そのエネルギーさえあれば、更新は進んでいくと思うから。

 

とどまることが間違いを重大にする。自立した個々人の学びは、絶対的な正しさや完成ではなく、プロセス自体が重要だ。完成し、安定した作品ではなく、公開されるプロセス、ワーク・イン・プログレスこそが学びの舞台として適しているのではないか。