降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

2016年10月活動報告

活動報告をすることにしました。

 

対話の場をつくりたいと思い、ここ数ヶ月は、ドーナッツラボという名前で対話の場をやっていた赤阪さん夫妻を招いたり、哲学カフェをやってみたりして、やりたい場を確かめる試行を有志とともに本町エスコーラでおこなってきました。

 

話しの場というのは昔から得たいと思っていたのですが、自分の求める感じをつくるのはなかなかうまくいかず、何がどうなったら成り立つのか、何をやると拡散してしまうのかとか、ちょっとずつ確かめつつ、またやってみつつという感じです。

 

2014年アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティを知ったことは、場のイメージをもつ大きい契機になりました。人のことをいえないけれども、それまでは、正直なところ、この世界には話しをきく人と話しを聞かない人の二種類がいて、話しを聞かない人が変わることはどうやらほぼなさそうだと思っていました。対話の場といっても自分のなかにある前提を問う気がそもそもないとむしろ虚しい場になるなあと思っていました。

 

鈴鹿で僕が経験したことは、どちらかというと自分の話しばっかりする人とか、他の人の話しを受けても、その受けたことによる自分の変化や新しい感覚などをもって応答するのではなく、目の前の人から発されたことにその人の言葉は何の影響も受けてないのだろうなという感じをムンムンさせつつ、もともとある自分の言いたいことをいうために人がだしたキーワードだけを奪って話しだすとか、そんな感じで話していた人が変わっていって、キャッチボールが成り立つようになっていくというものでした。変わるんだなと驚きました。

 

話しの場をつくるとき、そもそものコンセプトが重要で、そのコンセプトによって、来る人も変わるし、話し合いの中身も変わる。僕が得たいのは、一つは自分のなかにある前提を問うものとしての対話の場だなと思いました。そういう意味でテーマを設定し、それを自分に問うていく哲学カフェはそこに近い。

 

素晴らしい見解に到達するために話すのでもなく、頭のなかに既にあるものに亀裂をいれて成り立たせなくするのを楽しむ。その場にいる他人を変えようとするのではなく自分の中を変える。

 

外界から来た情報は、意識で把握できないほど瞬時にプロセスされ、そこでつくられた意味を自分は受け取ります。そのプロセスは一秒の何分の一かわからないけれど本当に瞬時です。この瞬時に何がおこっているのかをリアルタイムでみることは難しいのですが、そこで何がおこったかは、後でたぐりながらみることができます。

 

インプロの今井純さんのワークショップに初めていったときに印象的だったのは、何かワークをやった後に誰かがある状態に疑問をもったり、上手く行かなくなっていたりすると「それ、どうなってる?どうなってた?」と、ワークのある一瞬におこっていたことを想起させ、観察させる働きかけを頻繁にしていたことでした。

 

瞬時におこったことに、あとからでいいので意識の光をいれる。その瞬時におこるプロセスは放っておけばそのままになり、無自覚に繰り返すのですが、そのからくりに気づくと変わる。自動的に繰り返すことが終わります。

 

自分がやっていると思っているけれど、実は自動反応の繰り返しでしかないものは、観察抜きでは変わらない。僕が以前話しの場で虚しいなと思っていたのは、刺激に対してレコーダーが録音の自動再生をはじめるだけで終わるということだったのかなと思います。

 

その一瞬、自分はどうなっていたのか。どうその情報はプロセスされたのか。この瞬時を観察することを場の設定にいれることによって、その場は自動再生の場ではなく、自動再生を終わらせていく場になると思います。

 

観察する対話ということに軸をおいて、試行を続けていきたいなと思います。