降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

自律空間としての文化 「自由意志」はどこにあるのか

昨日は本町エスコーラで山口純さんによる、バンクーバーで行われたplacemaking weekという場所づくりに関わる様々な立場の方が研究を発表したり街中でユニークな企画を行う10日間の催しの参加報告を聞きにいく。以前も一回されていたのだけれど、用事があって行けなかったのでお願いしてもう一回やってもらった。


かたちやスローガンだけでない実践的な取り組みが興味深かった。ホームレスの深刻な問題があるなかでそこに向き合わずにplacemakingなどあるものか、自分は参加しない、と企画自体を批判している人も紹介されていたのが健康だと思った。

 

先住民の割合は人口の1割以下なのだが、ホームレスのうち先住民の割合は5割だったか、多くを占める。土地、文化、自律性を破壊され奪われた人たちがアルコールや麻薬の問題を抱えるのはアメリカの先住民と同じだと思った。日本も先住民に対して、同じことをしていて、貧困は今も世代的に再生産されている。※1

 

文化の自律性は、個人の自律性を支え、エンパワーするのだろうと思う。文化の重要性は、その文化自体の価値ということもあるだろうけれども、個人をケアし、自律性をエンパワーする場の整いとしての一貫性にあるのではないかと思う。個人の自らの内側にある動機を展開させ続けていくことが生きることの充実をつくるのであり、どのような享楽を「与え」ようとも、動機を展開させていく環境を奪うのならば、全く人を疎外していると思う。

 

日々の人との関わり方、モノとの関わり方、仕事との関わり方などが副次的にその人が依る価値観や感覚のベースを用意する。それらはほぼ無意識にできあがっていくといっていいだろうと思う。人の「自由意志」というものは過剰にその中立性をうたわれていると思うけれど、上記のことを踏まえるならば、実際のところどれほどそのようなものがあるのか疑問に思う。むしろ「自分で選んだんだろう?」という自己責任に帰するために「自由意志」というものが高い価値をもつものとして称揚されているのではないかとさえ思う。

 

「自由意志」は自分たちがつくった自律的な空間ではじめて生まれるのではないだろうか? 自律的な空間においてはじめて自分に染み込ませていた、身体化した他者の様式から抜け出ていく契機をもつのではないだろうか? 孤立した個が「自由意志」を回復していけるだろうか?

 

精神的に孤立したものはゆだねることができない。変化は、ゆだねるということによっておこる。変化とはそれまでの自分の様式の死であり、その死の恐怖を相殺するのが自分以外のものとの関係性だ。個がそれ自体で中立的な動機や自由意志をもつというのは神話だ。その神話の信仰は、自分以外の他者に対しても抑圧を与えるだろう。

 

※1中村康利 現代アイヌ民族の貧困
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/…/2…/39608/1/JESW14_002.pdf