精神のエサ場 Morning Zine Circleにいってきた
カフェパランのモーニングジンサークルに参加。ジンはZine。magazineのzine。流通などを通さない自主制作の冊子。
ジンを出すのは20代、30代が多いということで、40代以後はどうなっているんですかと聞くとジンフェスの運営側になったりして、この媒体を通したやりとりを支えるほうになる傾向があるとか。ただ日本ではそういう環境はまだあまりないそうだ。
商業主義を介さないジンのあり方はとても自給的だなと思う。
世界と出会い、やりとりしていくなかで、世界との関係性や自己のあり方が変容していく。自給の趣旨は、環境と自分に必要な変容をおこし続けていくことともいえるかもしれない。
自給農法の考案者糸川勉さんは「動物は自分のエサ場をもっている。自分のエサ場をつくるのが自給」といっていた。体を維持するものを自分で調達できるようにする。一見面倒にみえても、依存を廃していくことが自分で自分をエンパワメントする基盤を作っていく。
公園では営利活動が基本できないから、手づくり市などはお寺など私有の場でよく行われている。やりたいことに必要な自由というのは、自律的な空間で得ることができる。全てを得る必要はないが、自分が進んでいくのに必要な裁量権を自分に取り戻すこと、そして自分のエンパワメントに責任をもつ主体となることが重要だ。
何から何まで得る必要はない。必要なことが見えれば、それを最低限展開させていくために環境に働きかけ、調整する。これを繰り返す。
ジンのクオリティは本当にそれぞれ。「本というものは読みやすいようにこうでなければいけない」とか、ない。自由でいられるのは、不特定多数を前提にしていないからだ。不特定多数に対する普遍性の追求は、自給においてさしたる意味をもたない。この自分に必要なものが満たせるかどうかが問題。対象と規模によって、正しさも変わり、自由も変わる。
さて、今の自分に不足しているのは、いわば精神のエサ場だ。自分にプロセスをおこしていくために、必要な情報、必要な体験、必要な関係性がある。これは形を変えながらもいつまでも必要だ。
どこかに行くばかりでは不十分。人の企画は、つまるところはその人が進んでいくための企画であって、質的にも量的にも自分にジャストフィットというわけにはいかない。
珍しいもの、自分の力では作れないものはもらえばいいが、基本的に必要なものは自分でエサ場を大体つくれるという自律性があったうえで、交換したりとか、コラボしたりとかいうことも豊かに派生してくる。
畑は土があって、種があって、栽培を繰り返すということではわかりやすいけれど、精神のエサ場はかたちが定まってないから場所も時間も媒体もデザインもゼロから考える必要がある。が、やはりこれは自分が責任をもつべきところで、放っておいたら自分が弱っていく。
そういうところで、zineを支える側にまわった40代以降の人たちは、単に身をひいたり、援助のための援助者になったんじゃなくて、自分の精神に栄養をくれる面白い場や人との出会いをつくりだすためにやっているんじゃないかと思った。20代、30代の、点と点で書いたものを渡すというのも出会いの方法だが、そもそもの場をつくるほうがよっぽど凝縮した自分のあり方を世界に対して提示できるし、関われる人も増える。一本釣りに対して、地引き網漁のような効率性だ。
自分をふりかえり、精神のエサ場をつくるということが必要だなと自覚する。
しかし「死ぬほど退屈」など言われるけれど、必要なものが得られてないと本当に死んでいくんだろうなと思う。pha さんも退屈な日常にはならないと確信できてから仕事を辞めたと書いていたと記憶しているし。