降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死んでいること

からだとことばのレッスン、二泊三日の合宿に参加する。

 

10/8-9三浦海岸WS合宿 - ningen-engeki ページ!


竹内レッスンは、竹内敏晴本人も書籍等で言及しなかったけれど、野口体操をベースといっていいほど取り入れたうえで出来ているものだったらしい。色々あるようだ。
先日の本町エスコーラでの対話の場の経験後は、考えるとき焦点をあてるところが変わってきている。(適切な言葉が見つかればそちらを使うがとりあえず)リアルな感じという意味での「リアリティ」がどうかという点で物事を見だした。

 

畑に行く途中の長い坂で、少し自転車漕ぎに本気になる。余裕の範囲内から出たとき、自分は生きて揺れていると思った。変わる存在としてある。余裕の範囲内にいるときは、変わらないものとして死んでいるなと思った。

 

レッスンのなかで、銀河鉄道の夜を題材に、声が相手の心に届くか届かないかを一人ひとりが何度もやった。一言一言が自分の思いや内面のほうに閉じているのか、それとも相手に届き、相手の心を動かすものなのか。

 

自分のほうに閉じた声と相手に届く声の違い。後者でやるときは、そこに自分が賭けられていると思った。自分は大分前から、そこに自分を賭けるようなことは避けるようになっていた。それは、自分の働きかけに対して相手がどうでようと影響を受けないようにするための防衛。それは自分じゃないものを演じることでもあり、自分を実際の感覚から遠ざける。

 

物語中の「さあ、下りるんですよ。」という短いセリフを何度もやり直した。「さあ」というときに相手に届く声であっても意識が抜ければ「下りるんですよ」はもう届かない言葉になってしまう。

 

相手に関わらない声を出すは、自分にも関わらない。言わば、死んだ人としている。届く声を出したときは自分も生きている感じがする。生きるというのはこういう感じなのかと思った。生き続けるというときの生きるではなくて、それ自体が生命をもつもの、こちらからあちらに動いているもの、その一瞬の生、一瞬の震え。その場に現れた一回性のエネルギーが弾けて、その場で消えていくもの。

 

死んでいるのか、生きているのか。
安定を求め、世界や相手に影響されないように、死人として生きている。面白いのは、生き「続ける」ということは、どちらかというと死としてあることに近いということだ。生きるということは、そのような偽の連続性とは対極にあるようだ。

 

影響を受けないように死んでいても、残念ながら苦しい。揺るがされる激しい苦しみがないかわりに、重い、変わらなさと虚しさ。生きているのに死を偽装しているのだから、一方で何かが生を激しく求める。作用と反作用。死を強制する自分への鈍い憎しみ。

 

死という殻で、自意識は守られている。自意識は平穏を願っている。何もおこらないこと。安定した死の世界を守り、敷衍しようとし、安定のために生を抑圧さえする。と同時にそのあり方を自分が憎んでいる。本当の死をむかえたい。それが自意識の底にある願いだ。生き続けなければいけない自分に死を与えて欲しい。終わらせてほしい。

 

死をまとい、生き続ける。転機にある人は、ある意味まとっていた死が死としての機能を果たさなくなっている状態にある。内在する苦しみを終わらせる衝動が、そのままを維持して生き続ける衝動の強さをこえる。

 

生きものというのは、どうもどちらかというと滞りのほうなのだと思う。変わり続けるものの一休みとして生がある。生き続けること、維持すること、同じであることに強迫されている。ところがそれを成り立たせているエネルギーは死ではない。そう思うと、死も本当の死はなく、一休みであるだけなのかなと思う。