降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

『屍鬼』読み終わる 生の呪いと更新作用の相克

文庫版、残りの4巻と5巻が図書館にきた。

 
最近友人と話したとき、僕は人間は生命を生まなくて、生命が生命を生むと考えると言った。生むというのもおかしいかもしれないが、生命は、働きであって、生きたり死んだりするものではないだろうと思っていて、それを操作したり、働きを媒介したりしたからといって、人間が生命をどうこうしたとかいう言い方するのは、とんだ話しだなと個人的には思う。

 


私という自意識が生命だというのは、たとえ多くの人が疑問なくそう考えていたとしても、実態なのだろうか。自意識とは、生命の主人公などではなく、生命の花火に派生した煙のようなものではないだろうか。実のところ、川の流れのなかに派生した渦のような、見かけ上の実体ではないだろうか。だがそれを実体と考え、そこへの同一化や信仰を維持することに血道を上げざるを得ない仕組みになっている。

 

生命が働きであるならば、死を求めるのもまた生命だ。古くなった殻、古くなったシステムを更新しようとする。ところが古いものは抵抗する。平衡が崩れ、危機に面すること、死すことを恐れ、維持にしがみつく。舟に空いた穴を直視せず、穴を否定するような本末転倒に陥る。

 

「私は自然とは保守性であると思う」という大分昔に読んだ畑正憲の本の一節を覚えている。どちらかというと「常識」を覆すほうのことを好んだ彼がこの認識であるというのは印象に残った。

 

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

畑正憲作品集 2 ムツゴロウの博物誌

 

 

 

生きるものは敢えてリスクを冒さない。危険を冒すのは基本的には、既に危機にあり、そのままではいられないことが体感されているときぐらいだ。生きることは、どちらかというと、安定したものにしがみつくことのほうに重点が置かれている。

 

ところが、この生きものとしてのしがみつきが往々にして盲目的であることが自己矛盾をおこす。しがみつかないほうが長い目でみると生きていくことにとって有利であろうと思われるときもしがみつく。自己破滅的なしがみつきをする。

 

生きていくということは、変化をすることよりも、環境や状況によって状態が変えられることを拒むことに反応の軸がおかれている。生体としてそのようになっていると思うので、大きな変化、質的な変化をしなければ生きていけないという状況が、生きものにとっては基本苦手なのだと思う。

 

生きていくということが、あまりにも、何をおいても優先される身体であることが、逆に生きることを行き詰まらせる働きをする時がある。これが生きもののもつ自己矛盾だ。この行き詰まりは長い時間生きるというときに顕著に現れてくると思う。そして特に自意識は、生命の更新作用に対して強く抵抗する。

 

物語における不死は、この生きものがもつ呪いのような、生きるための保守性、同じあり方への盲目的しがみつきが(生きもの以前にあるものとしての)生命の働きがもつ更新作用と相容れない苦しみをテーマにしていると僕はとらえている。齟齬をきたしはじめているのに、なお同じままであって生を維持しようとする閉じた繰り返しは、周りの生命活動や環境との関係性に破綻をもたらせていく。

 

吸血鬼は不死の苦しみをもっている。自ら死にきれないが、死を求めている。苦しみの終わりを求めている。だから吸血鬼でさえ、死ぬ瞬間には往々にして感謝の表現をする。死んでいるのに、死にきれない苦しみが終わることを喜ぶ。

 

自ら死ぬことができないのは、苦しいからだ。痛み、恐怖によって行動は決められている。死にきれないことは、死の呪いではなく、生きものがもともともっている呪いなのだと僕はとらえる。この保守性、この死にきれなさこそが、生きものが不可避的に抱えた苦しみなのだと思う。

 

生の素晴らしさを強迫的に賛美することへの動機には、むしろ無視や抑圧がある。見ないため、感じないために高揚が必要なのだ。それは飢餓を一時的に満たすための血液だ。しかし、その根本的な不足の原因は、死んでいるもの、成り立たないものが無理やり生きようとしているところにある。麻痺するために必要なものはより多くなる。どのような場合でもいずれ足りなくなる。

 

だがここで興味深いのは、どのように保守性を維持しようとしても、その一方で切実に更新を、死を求めていることだ。それは素直にいかない場合、破滅を求めるというかたちになる。この苦しみを一点に凝縮し、ぶつけたい。そのことによって生が報われるような感覚を持ち出す。その欲求に駆られるようになる。それは現実の行動や思考の一貫性を犠牲にしても自律的に動き出す。

 

屍鬼』においては、人狼がそのような状態を表現していた。
人狼について説明すると、屍鬼(←大体において西洋の吸血鬼と同じ特徴をもつ。)は夜しか活動できないが、屍鬼によって襲われた人のごく一部は人狼という存在になって、昼も活動できるし、血液以外の食物も食べることができる。屍鬼は朝になると強制的に眠ってしまうが、人狼にはそういうこともない。

 

人狼は肉体的にはあらゆる面で屍鬼をこえていて、その気になれば昼に活動を停止している屍鬼を殺すことさえできる。だが物語の人狼は自らの意思に従って屍鬼の首領につかえていた。

 

ただ生き続けるという終わりのない虚無のなかにいた人狼は、屍鬼の首領がある村を乗っ取って屍鬼の村とするという破綻を内在した計画に惹かれた。それは彼にとっては彼の生の苦しみを凝縮して世界にぶつけるものだった。そのようにして終わらせたい。今までの抑圧された生に対する弔いの欲求をもつようになる。

 

生き続けるということに対しては、合理的ではない欲求が高まり、その欲求に行動や判断が引きずられるようになる。物語における不死者はこれをとどめることができない。それは結局、生命の働きによる更新作用なのだ。自意識でしがみこうとしているのに、欲求は死を、終わりを強く求めだす。

 

人間に絶望し、屍鬼にならず屍鬼に隷属した桐敷正志郎や村の信仰の要として、形骸として生きなければならなかった寺の住職である主人公室井静信。彼らは、人間が生きるために自らつくりだしたシステムの犠牲者だ。彼らにとっては、社会や村のシステムこそが死であり、その死に抑圧された生を送っていた。精神的な死者として生きていたのだ。

 

抑圧された生に対しては、更新作用が高まる。恨み、怒り、反逆への欲求。それらは無自覚にしかし確実に心を支配していく。宮崎アニメの、死んだ城塞都市が大きな木に乗っ取られて、木の方がむしろ本体になるかのように変わっていく。それが最終的にどのようにいびつで、破綻的な結果を生むことになっても、その高まる欲求自体はとめることができない。それが生命の根源的な更新の働きだからだ。逃れることはできない。

 

生は、古いシステムへのしがみつきとして死にきれない傾向をもつ。同時に、そのシステムを破綻させようとする生命の働きにも勝つことができない。

 

そして自意識というものは、どちらかというならば、生命の方のものではなく、システムの方のものなのだ。それは死物であり、潜在的に常に更新を求められている。同時に決して死のうとしないという、生きていくために与えられた呪いを持っているけれど。

 

 

屍鬼〈1〉 (新潮文庫)

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