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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

凝縮されたリアリティ

東山区の本町エスコーラで実験的な対話の場を重ねさせてもらっている。

 

 

今回は、ドーナッツ・ラボという名前で対話の場を作られていた赤阪さん夫妻にも声をかけさせてもらった。

 

対話とはいったい何なのか。そこで何がおこるのか。それを体験してきたお二人に話しをきかせてもらいたかった。

 

僕自身を振り返ると、大学時代からずっと「話し」がしたいと思っていた。その「話し」というのは何だったのか。自分の内面のことを話すということも入っていたし、自分がずっと確かめ探っていることの話しもしたかった。

 

だが、「話し」は全然足りなかった。酸素が足りない。そう思っていた。自分の興味ほど、周りの人は興味がないから「話し」ができないと思っていた。別にその人が右でも左でもどちらでもいい話しなどしたくなかった。

 

妥協のないもの。

たとえばその人が本当に好きなことの話しをするとき、そういうものが出るというのはわかってきた。心理学の話しとかで妥協のないものを話すというのは諦めた。いつも足りないから、場を作ったり、どこかへ行ったり、人類学へ転科したりした。

 


妥協のないことは、ある人が今の自分ではおさめきれない苦しみを抱えているときにもおこっていた。そういう人に実際に会える機会はあまり作れなかったが、大きな苦しみを引き受けている人たちの言葉やあり方をみた。大きな苦しみは、小手先のごまかしややり過ごしではなく、根本的な乗り越えを人に求める。苦しみのために人は向き合わざるを得ない。

 

妥協のなさが生み出しているものは、自分が進むための動力であったり、必要な方向性を見定めるためのヒントだった。そうしている自分は洞窟で上から落ちてくる水滴で渇きをしのぐみたいな感じだなとも思った。自分に化学反応をおこすのに必要なものは潤沢にはない。

 

最近になってようやくそれは更新を求めていたのだとわかった。この自分の今の状態、自分の今の構造の更新。世界をまた新しく体験していくための営為。自分が「話し」に求めていたことはそこだったと思う。

 

妥協のなさを重要視しているつもりだった。しかし、その理解はとても表層的だったなと思う。今回は自分の捉え方が場によって変えられた。何がより重要だったのかわかっていなかった。

 

対話がなぜできないのかという問いがある。それに対して、自分のなかの思い込みやその意味はこうだという無意識の決めつけが存在するため、自動的な感情の反応がおこると考えている。その反応が存在と存在の「触れ」をなくしている。よって、その無自覚な頭の中の設定を観察によって気づき、破綻させていくということが、根本的なところだと思っていた。

 

確かにそういう面はある。それの重要性は全く変わらないが、それはメンテナンスとしてある。では何をメンテナンスするのだろうか? それは存在と存在の間にある通路をメンテナンスするのだと思う。存在が存在を変える。動的なリアリティ、自律性があり、それが相手に流れ込み、別のものにしていく。

 

メンテナンスだけがあっても、その動的なリアリティ、自律的なものがなければ何もおこらない。

 

自律性はメンテナンスの結果として現れてくるため、重要なのはメンテナンスなのだと考えていた。だからメンテナンスができるようになることが大事なのであり、メンテナンスができるかできないか、できているかできていないか、が場でおこることを決定するととらえていた。

 

しかし、その理解は半分をみたに過ぎなかった。
メンテナンスが全てではない。動的なリアリティ自体が場を設定し、つくりだす。それが今回得た理解だった。

 

今回の場を経験した友人が終わったあとに、あの場にいると、自分の言葉をどれだけそぎ落とせるのかということに意識がいったと言うのを聞いた。

 

場にシェアされた妥協のないリアリティに対して、自分の言葉がどれだけ嘘を含んでいるのかが照らし出される。友人の言葉を受けて僕も自分自身のこととして、確かにそうだったと思った。自分の言葉のなかでリアリティが薄いものは、言葉として発せられながら本当にうすら寒く、白々しく感じられる。失礼だとすら感じられる。これは非言語的なリアリティが場を設定しているといえるだろう。

 

その人の底から出されたリアリティは場を震わし、作り変える。場にあった空虚な規範や見栄えのよさを繕う軽薄な余裕を地に叩きつける。それは閉じ、いびつに固まった内的なシステムに修復できない亀裂をいれる。

 

底にあるリアリティをどこまで凝縮したかたちにできるのか。そのことの重要性を知った。言葉の多寡、上手い下手も関係なく、その凝縮されたリアリティが場をつくり、人のあり方を変える。

 

リアリティを凝縮することは、「出会い」の契機をもたらす。化学反応としての「出会い」は固まったシステム、制度疲労をおこし生命を減衰させはじめた自意識を壊して塗り替える。古い制度を完全に破綻させて終わらせる。死に切れなかったものに、贈りものとしての死を贈る。そのとき生は更新される。自分もまたそのリアリティを凝縮させてきた。それは「出会い」をおこすためだった。

 

凝縮されたリアリティが場をつくり、その場でおこることをつくる。その時、メンテナンス行き届いた人なのか、そうでないのかということを超えたことがおこりうるだろう。幼稚であろうが、どのような不足があろうが、その自分のリアリティを凝縮させることはできる。そしてその凝縮されたリアリティは、おそらくどのような状態にいる人に対しても贈りものとなるだろう。それはもう既に過去の繰り返しではいられなくする贈与だ。

 

今回を受けて振り返るならば、結局今まで自分のなかは、準備できた人と準備できていない人、できるようになった人とできない人がいて、できる人になっていかないと何もおこらないとなっていた。そうではない。今の有り様のままで、何も潤沢ではなく、不十分な自分のままでリアリティは凝縮できる。むしろ不足があるからこそ、より凝縮の動機と契機を得るというほうが妥当だろう。