降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

STAGEを読む

STAGEを読む。

特別寄稿をふくめると11人の人が文章を書いている。

 

こうしたい、というイメージがあり、一人ひとりにかけあい、関わりのなかで現実化された濃さみたいなものを感じる。

 

出版後のSTAGEに関わる話しを聞いていても、本の存在は薄まっていく感じがなくて、むしろ同じ濃さのものを呼び、つなげる力があるような感じがする。

 

手づくりのものというのは、こういうもののことかと思う。

僕がSTAGEを渡させてもらった人の反応も、頭で読んだ反応というよりは、心がほぐれたような、そんな感じで感想を伝えてくれた人が何人もいた。

 

「何かほっとした」とか。

「みんな生きづらさを抱えているみたい」という感想もあった。

 

https://www.instagram.com/p/BKf99XohqUz/

 

自分の文章を再読するときは、ちょっと抵抗が強い。なかなか読めなかったが、つい先ほど最後に読んだ。自分が意識して書きながら、同時に霊媒みたいに感じ取られるものをなぞって言葉にしているので、他人が言っているような、そんな新鮮な感じもする。

 

別の本の序章に「寄り合い」について書かれた文章があった。一般的に理解されているのと違って、寺社などで非日常の空間で行われる寄り合いは日常のしがらみや上下をたちきる場であったという。

 

「寄り合い」というと、それはとりもなおさず地縁や血縁にもとづく人々の結合の形式であると、われわれはかんたんに考えてしまうのだけれども、どうも、そういうことではないらしい。「寄り合い」は日常的な関係性を引き写した集会ではなく、むしろ、それを超える関係性をつくり出すための集会であったようだ。人々は家格や血縁の如何にかかわらず、対等な個人として発言した。誰はばかることなく、その所存を開陳した。そのためにも集会は、寺社という非日常的な、いわばこの世の結縁をたちきった空間でおこなわれることが必要であったのだ。「寄り合い」は、その言葉がこんにちよびおこすところの通念とは逆に、むしろ因習的な共同体の絆をたちきる行為であったのだ。 里見実『ラテンアメリカの新しい伝統』

 

 

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

ラテンアメリカの新しい伝統―「場の文化」のために

 

 

寄り合いは、様々なしがらみや規範を無化した空間で行われた。自由を得るためにはそのための空間を作らなければならない。空間の構造がその中にあるものの運動のあり方を決定する。そこで人がどういう状態になり、どういったことを思いつき話すのか。それらは空間の構造に依存している。

 

ある空間は、人をある状態に縛るともいえるし、解放するともいえるだろう。運動が空間に依存するとはそういうことだと思う。

STAGEという舞台を提供された人たちが、その新しい空間での振る舞い方に戸惑いつつ、動き出せる空間を待っていた自律性、プロセスをそこにゆだね、反応をおこしていく。ここで、何かを終わらせていく。