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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

ピアの可能性

FB、1年前の記事がお知らせでくる。”回復のための演劇がつくりたい”と題してヴァイオラ・スポーリンや坂上香さんの「トークバック〜沈黙を破る女たち」から人の変化とそこに使えるものとして演劇という媒体について考えた。

 

 

kurahate22.hatenablog.com

 



今、タイトルを見ると、わざわざ「回復」とかつけると意識するから邪魔になるだろうと思ったけど、読んだら文中でもそれは言及していた。1年前の記事とかは既に他人が書いたのと同じような感覚になっていて、こんなこと書いてたんかと思う。


”公演で生計をたてる役者になるのだったら、どれだけ自由になれるか、どれだけ演じられるかが重要になるのだろうけれど、みんなが役者にならなくていいのであって、個人が自分の防衛からより自由になればいいし、人と人がお互いにより深い信頼関係をもち、人が変化しようとする時に支持的になれるようになればいい。これだけで十分革命的なことがおこるだろう。

演技がうまくなるためではなく、治療のためでもなく、成長のためでもなく、ただ個人のなかにあって動こうとしているものが動きやすいような環境をつくれればそれがベストだと思う。ある特定の価値観を至上のものとすると、それもプロセスの邪魔をする。


「回復のための演劇をします。」と言わずに実質的にそうするには、どういう設定が必要だろうか。たぶん、別の建前をつくり、主にそれに向かっているような錯覚をもつことによって、自由になると思う。四国遍路で88カ所の寺をめぐるという目的をたてながら、そのことによって「道中」をつくるように。四国遍路においては、遍路は道中にあり、と言われる。お寺ではなく。”

 


昨日、仲間内でちょっとしたロールプレイをやった。そういう働きかけをやってみたのは自分では初めてだったのだけど、意識に残るその時の状況で自分に何がおこっていたのか、そこから何が固められてしまったのかを見るのに有効だと感じた。

 

仲間内と書いたが、今、あらためて実感を強くしているのはピアの可能性だ。学校や講座、ワークショップで「できる講師・ファシリ」と「教えてもらう人」というかたちではなく、ピアの一人ひとりが学びと協働の主体であり、求める技能や状態を高めていく。このかたちで可能になるのは、主体性以外のところでは、時間・場所の融通性がまずあげられる。

 

個人が贅沢に焦点を当てたいことに時間とその場を使える。多人数一斉型ではここが犠牲になる。自分のなかで何かのトリガーがひかれ、プロセスがはじまる契機を逃さず、すぐにピアと共にやってみるということができる。

 

1回限りのワークショップ型では、その場の体験は残念ながら使い捨てになりがちだ。得たことも別の場では再確認とかエクササイズしにくい。演劇的ワークショップなどでは、ワークショップ後に調子を崩されたときに対応ができないので、必要だと思っても踏み込みができない。それは一回限りの関係性だからだ。だが、時間も場所も融通がきくピアなら、その問題をこえていける。やるだけやって後はケアできないということが回避できる。