学びとは何か サバイバルとエンパワメントの視点から
学べることは無限にあるけれど、では何を学ぶことを選ぶのか。
学ぶことは余裕のある人や、能力に恵まれた人、学ぶことが好きな人だけに関わることなのか。
僕は今まで特に学ぶという言葉に対して意識してこなかった。自分にとって火急なことがあり、自分が生きていくために世界から情報やヒントを得て確かめ自分のものとしていく必要があるだけだった。
もともとの能力的な限界もあるけれど、学問の世界とか行かなかったのは、人に証明するために膨大な時間を使っていくことはできないと思ったから。自分が理解し、今いる場所から先に進む。それが重要であり、人に証明する必要も必然も自分にはなかった。
あまり色々と能力を持っていない。自分の体や頭が動くところでいくしかない。自分はサバイバルをやっている。しかし自分が既に知っているものでは足りない。サバイバルしながら、新しい何かを獲得していくことが必要だった。
そのなかで気づいたのは、自分の体や頭が動くところを自分に提供していくと次が開けてくるということだった。エネルギーがたまり、認識や感覚が変わり、そして人や環境への関わり方が変わってくる。それはらせん状に動き、エネルギーを得ていくループ。
このループと共にあることによって、生きることはエンパワーされる。繰り返されるループだが、それがらせん状であるなら同じところをぐるぐる回っているわけではない。常に自分が変わりながら、必要なものも同時に変わってくる。必要なものはその度に探られ、発見される必要がある。
教育哲学者林竹二が被差別地区の定時制の学校(湊川高校)で授業をしたとき、他の学校では「不良」以外の何者でもないような生徒たちの変貌ぶりは林を驚かせた。同じことをやった他のどの学校でもここまでの変化はなかった。一体何が人をここまで変化させるのか。その原動力は何なのか。
学びとは新しくなること。生命が不必要になった外殻を破り出てきて自身を更新すること。この学校の生徒たちは他の地域の誰よりも強い抑圧や不条理のもとに押し込められていた。学びは他の誰よりも彼らこそに必要であり、彼らの身体は生きものとして切実に学びを求めていた。
学ぶことは、生きものが自身を更新し生きようとする力に動機づけられている。その身体に動機づけられている学びによってこそ、人はエンパワメントされていく。ここが学びの基軸。
自分の身体の奥に動機づけられていない学びは、学びとは呼ぶべきでもないと思った。紛らわしく、余計に人を混乱させるからだ。学ぶことは、即サバイバルであり、エンパワメントである。やらなくてもいいようなことが「できる」のは自分を脇においているのか、失っているようなものだ。
エネルギーを得て、変化し、エンパワメントされていくループにあるとき、学んでいる。そしてそのループにあるときに自分がある。
ではそのループと共にあることを求めるとき、要請されるものは何か。それは環境に働きかけそれを自分に必要なものとする力、環境に対して裁量をもち、調整する力だ。自立性とも言えるだろう。
湊川高校は貧しい非差別地域にある。彼らには環境を主体的に調整する社会的な裁量権は少ない。強烈な動機があっても、貧しさや社会的ステータスによって、環境調整をする裁量は少なく、自分に最も必要なものを自分に提供することによって動きだすループは動き出しにくい。彼らとは違う人が自分たちのために作った規範と抑制のなかで、彼らに必要な出会いの機会は多くない。
必要なのは自前の自律的な空間をつくることだろう。エネルギーを得ていくループが動きだすことを可能にするために有効な手はそこにある。小さくてもいい。ループが動きだす最低限さえあればいい。何もかもがいるわけではない。
学びの自立があるときに、ようやく自らに由るということが可能になる。それまでは結局依存状態なのだ。エネルギーを獲得し、エンパワーされていくループを自分のものにし、維持する自立性をより確かにしていくとき、そこに必要とされていた自由が作り出されていく。