降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

差し出すものの足りなさ ゲリラであることとエンパワメント

自給の目的は金銭的節約でもなく、サバイバルだけでもない。自給の第一義は、自分のエンパワメントだ。そこがブレると何をやっているのかわからなくなる。


僕が自給農法とその考案者の糸川勉さんに学びたかったのは、生きものの理屈。生きものの身体が持つ動機。そして自分を軸とするとはどういうことかということ。
糸川さんが作物の育て方や生態の話しをするとき、僕はそれを作物の話しであると同時に、むしろ人間の話しとして聞き、自分を軸とした畑での作業のデザインを自分が生きていくあり方のデザインとして聞いていた。

 

自分の軸からズレることによって自分は疲弊していく。軸とはエンパワメントの軸。自給農法を学ぶことは、その軸を再吟味し、軸に戻っていくリハビリになる。
社会で流通している理屈は一見もっともらしくまとまりを持っている。しかしそこには無意識に取り入れると自分を弱めていくまがいものが入っている。

 

畑の現実、作物の現実は一片の意図的操作も妥協もなく現実そのまま。誰が何と言おうと、何を肯定し、何を否定しようと現実はそこにある通りだ。そのとき現実に対照されて露わになったまがいものが破綻していく。

 

「〜であってはいけない」「〜しなければいけない」と無自覚に思い込んで自分を弱めていたことから自由になっていく。

 

自分に責任を持つということがどういうことなのか。それは自分のエンパワメントに責任を持つということ。

 

社会はギブアンドテイクで出来上がっているようにみえる。ギブするものがなければテイクされるものは少なく、それが自分の「商品」としての価値だ。自分の価値とは他者にとっての利用価値だ。

 

生きものの世界はそうだろうか? 生きものの世界は一人ひとりがゲリラの世界だ。どこにも自分のものはなく、ゲリラとして必要なものを世界から奪い、いただく。ゲリラであることによって生きることは構成されている。

 

そして人間の世界に帰ってみる。人間の世界も実はゲリラの世界だ。出来上がった世界に従っているようで、それぞれのものは間隙を抜い、自らの危機を乗り越え、また欲求を達成している。用意されているものとは、表層的な、にわかのものに過ぎない。

 

そのとき、どれだけのもっともらしい理屈が、絶対的に強いもの、あるいは相対的に強いものが自分の都合のいいように弱いものをコントロールしようとする動機に基づいているのが見えてくる。

 

それらは「人は〜あるべきだ」「人は〜しなければならない」と言いながら、それに従った人がたどる末路に責任をとるつもりなど毛頭ない。強いものは他人にギブアンドテイクを強要しつつ、実は自分はギブするつもりなどないのだ。力で自分で作った理屈を無効化する。

 

その時自分を弱めているのはギブアンドテイクだと気づくだろう。ギブしてもらうためにはテイクされなければならない。その取り引き、コントロールを無自覚に信じているからこそ差し出すものの足りなさにおびやかされる。

 

自分が生きること、自分のエンパワメントを誰かや何かに預け、放棄しない。生きることは本質的にゲリラであり、そこを否認することはできない。そしてそのことを知る時に戻ってくる力がある。