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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

修復的司法講演録②『被害者と加害者の対話から生まれるもの〜個人から関係へ〜』を読む

修復的司法というのはどんなものだろうと気になって冊子を取り寄せる。

 

みんなで作り上げたテープ起こしの文章が冊子になりました : ピアサポートネットしぶや



「司法」という言葉から、まず国の制度の話しなのかというイメージを受けていたけれど、そうではなく真逆で被害者と加害者の処遇がすべて国家に管理されるところを当事者主体に引き戻し、被害者と加害者の対話によってお互いが納得する地点に向かっていくという考えのもとにある仕組みだった。


修復的司法は1970年代以降に西洋諸国で広がったもので、北米で少年事件の加害者が被害者と対話したことが最初の実践であるとされる。何度も窃盗を繰り返す少年が一人ひとりの被害者の家に行って、謝って賠償の約束をした。被害者の顔を見て話しをすると少年たちは真剣に自分の罪に向き合うようになった。ここから加害少年の更生には「被害者と対話すること」が役に立つと考えられ、加害者更生プログラムが生まれた。
ただし、世界各地ではこのプログラムだけでなく、刑事司法の制度の枠組みを超えるような考え方が広まっていった。それらは大きくは3つほどの考え方になる。

 

(1)市民による紛争解決
法律家に頼らず、市民が自分たちで紛争解決をしていこうという考え方。問題に直面した市民同士で「トラブルを起こした人をどうすればいいのか」「自分はどう関わるのか」を相談していく。

(2)癒しのための紛争解決
刑事司法では被害者は蚊帳の外に置かれがちで心の傷も放置されてきた。また加害者も刑務所に入れられても自分の罪になかなか向き合えないとい状況があるなかで、被害者の心の傷を癒し、加害者が心から反省して謝罪することを重視。被害者と加害者の対話の中での心理的な問題に取り組もうとする考え方。

(3)伝統的な紛争解決
マオリ族は、トラブルが起きた時に集会場で対話することによって紛争を解決してきたが、植民地支配によってその文化が破壊され、刑事司法にとってかわられた。元々あった文化を活かすという紛争解決の考え方。
以上の考え方は、どれも専門家でなく当事者が主導で紛争を解決をめざそうとすることで共通している。もちろんいきなり被害者と加害者を対話させるのではなく、あくまで当事者の気持ちを尊重したうえで入念にスタッフとの対話を繰り返した後に対面での対話が行われるとのこと。

 

修復的司法では、犯罪やトラブルは個人の問題に帰するのではなく、コミュニティや周りの人との関係の問題と考える。ある人だけの問題として片付けるという見方はしない。

 

個人が自分の責任で自分の権利に干渉してくる他者と交渉しながらやっていく個人主義と助け合いがあると同時に縛り合いを生んでしまう要素をもつ共同体主義という観点からみると、修復的司法はどちらかというと共同体主義に属するようにみえる。

 

共同体主義主義は、時に全体のためと称してマイノリティの声が抑圧される傾向や同一でないと認められないことがおこりうる。修復的司法はそこに対話という仕組みを設定し、共同体の既存の規範と外れる個人がいるならば抑圧ではなく、相互に納得のいく着地点を探すということを組み入れたものと考えられる。

 

ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、人はそれぞれ大事にする価値観が違い、コミュニティのなかでもそれぞれが違う価値観について語り、対話していくなかで「妥協」するための能力をもっていると考えた。すべての人が発言し同時にそれが尊重される機会をもち、相互理解に至ったうえで「妥協案」として出てくるものを重要視し、それを「対話による正義」とした。この時この正義は絶対的なものではなく、規範を破るものがいればまたコミュニティのメンバーは対話して合意に至ることを繰り返す。修復的司法は、このハーバーマスの考えを実現しようとするものともいえる。

 

修復的司法の実践例として紹介されたのが車泥棒の14歳の少年と車を壊された被害者の事例。被害者は当初少年に賠償を求める意思があった。だが対面したときに思っていた以上に小さく不安気な少年に対して怒りの気持ちは変化し、賠償費用をとるという気持ちが消えていった。

 

一方、少年は責められるつもりで対話に臨んだが親身になってもらい驚き、感情を揺さぶられる。その後対話は、少年の母親も参加することになり、少年がもう犯罪を繰り返さないために今の環境から引っ越すことが決まった。

 

これは上手くいった事例ではあるが、被害者と加害者が隔絶されることによって、被害者は加害者の貧困の状況など関係なく賠償を求め結局は意味のない無理な要求を押し通し、それは社会からは妥当なことと判断されるかもしれないが、大きくみれば状況の根本的な解決にも理解にもなっておらず、人を追い詰め、犯罪が繰り返される可能性は高まる。

 

また心理的な面についても、相互の赦しということも生まれず、単に損しただけの時間があり、そこから人が回復の契機がおこるということもないだろう。そこには「処理」しかない。

 

冊子をみながら思ったのは、紛争の当事者やその周りの人が共に話し合うという点など、オープン・ダイアローグのやり方とよく似ているということ、対話はやはりお互いの認識と関係性を変えていくということ、先日投稿した「個の尊重と調和」の場で検討されたことと共通するなということなど。

 

鈴鹿コミュニティの「話し合いのできるお互いになりあうこと」が重要だなとあらためて思う。「お互い」ということが大切でどちらかだけの「傾聴」とか、「専門家」の調停がありきでは決定的に不十分だと思う。

 

僕は鈴鹿でいう「話し合いができるお互い」を「対話ができるお互い」と言い換えられるのでは思っている。対話とは相手が自分と全く違う価値観をもっている他者であること、そしてその相手に自分の理屈や価値観を強制せず、お互いの存在を尊重しながらやりとりすることによって両者は変わっていき、既知の答えや状況ではない、第3の場所に向かうと思う。

 

専門家でなく、対話できるお互いになれるかという点が問われる。オープンダイアローグを実践しているケロプダス病院では、全ての職員が対話のトレーニングを受け、対話できるお互いになっているため、職場では上下関係や職種による隔たりが消えていき、組織は有機的で即興的であるようだ。

 

僕は「オープンダイアローグを実践するため」でなく、対話できるお互いになるためにオープンダイアローグの実践というものが利用できるのではないかと考えている。自分の周りの関係性をケロプダス病院の人たちのようにしたとき、暮らしのあり方はどのように変わってくるだろうか。

 

斎藤環さんによると、フィンランドでは、オープン・ダイアローグにピア制度というのが作られていて、医療従事者以外の人がオープン・ダイアローグの場に入っているという。それが日本に導入されるかどうかは全く保証がないが、この指とまれの人たちとともに、その場に入れるピアに勝手になっていくというのは面白いんじゃないかと思う。そんな「たいわのがっこう」を考えている。

 

『開かれた対話』フィンランドにおける精神病治療への代替アプローチの (Open Dialogue, Japanese subtitles)