降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

哲学カフェ@本町エスコーラ 「自信とは何か」

12日は、本町エスコーラにて小さいお話し会という名で哲学カフェをする。

 

浜松のクリエィティブサポートレッツのフライヤーが簡潔に満遍なく哲学カフェとは何かについてまとめてくれているので、スムーズに導入できた。

 

テーマは「自信とは何か」。
そもそもそういうものが本当にあるのかというところから話しを始める。

 

「自信」という「肯定的なもの」が自分に加わるといいのか?
または「否定的なもの」、自分の価値を積極的に下げるものが取り除かれればそれでいいのか。

 

現実的な行動をするという意味では、いちいち自分というものに対して価値判断をいれて、自分が好きだとか、嫌いだとかの状態にもっていくよりただあるもの、ただあることをニュートラルにとらえるほうが滞りがないようにみえないか。

 

能力や容姿などの資質、環境、財産など「もっていること」と「もっていないこと」がなぜ否定を自己価値に侵入させるのか。

 

所有と「自信」との関係
「〜をもっているから私には価値がある」

 

何も持っていない人には「自信」はありようがないのか?

 

乳幼児に関わる仕事をした方が何もできなくても「ありのままで素晴らしい」と実感したという事例から推測すると必ずしもそうとも思えない。

 

「何か」に照らして劣っている、よくないということがあり、この参照する「何か」の価値基準を無自覚に信じ、絶対化しているということがある。

 

文化人類学者の波平恵美子さんが紹介していた事例で、昔ミクロネシア(多分。)に拒食症はなかったが、ツィギーという針金のような細い足をしたモデルが映像で紹介されてからその症例が報告されるようになったというものがあったと思う。

 

ある価値基準が自分の今を超える大きなものとして自分のなかに設定されなければ、何も苦しまずそのままでいたのだと思う。一旦その価値基準が自分にはいると、あとはそれに支配される。

 

主体的な私が価値観をもっているのではなく、価値観が私を支配している。「そうでなければならない私」をつくり、強迫を続ける。

 

無自覚な価値基準や思い込みは、それがどのように成り立っているかが吟味され、見られていくと、価値基準の前提となる部分にまるで妥当性がないことが見えて瓦解する。必要なのはその成り立ちに意識の光をあて、曖昧であるがゆえに成り立っていたものを成り立たせなくすることであるように思う。

 

無自覚な思い込みや価値基準は、それが明らかに成り立たない状況を目の当たりにすれば変わる。必要なのは「目撃」体験だと思う。

 

沢木耕太郎の『深夜特急』で沢木は初めてあった人に屋台に連れて行かれ歓待される。その人は気がいいが家も持たない貧しい労働者で、宴の終盤には姿を消していた。沢木は彼の人間観で、その人は自分をいい気分にさせてくれた代わりに自分に食事代をおごらすつもりだったのだと解釈し、お代を払おうとしたが屋台主にお金は沢木の分も含めて支払われていると告げられる。家も持てない労働者に何もかもをプレゼントされたのだった。旅の初期に贈られたこの人間観の変容はその後の旅の体験をどのように変えただろうかと思う。

 

無自覚に信じていたものがそうではなかったということを「目撃」するには、上記のような状況に遭遇するだけでなく、シンプルに前提を問うていく哲学カフェのような場も有効だと思う。適切な問いが現れたとき、曖昧なゆえに暗闇で成り立っていたものは元の状態を保ち得ない。

 

難しいことをあらかじめ知らなくても、それぞれの自身に深く根ざしたリアリティから問いを投げかけるとき、その問いは他者となり、場にある無自覚なものを破綻させ塗り替えていく。

 

哲学カフェを含めた対話の試行を続けていきたいと思っている。今回の「自信」についてのやりとりも一回限りではなく、誰かが気になったポイントでもう一回会をもうけて、さらに吟味していくこともできるだろう。自分たちの周りで気になったことを話し合い、吟味できる場があればそこにあるものはより新しく、有機的で融通無碍になっていくと思う。

 

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