降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

「人と人」

昨日は個の尊重と調和というテーマで話し合いがされた。今まで個の尊重というと、その人の意思が示されたらそれにただ従うというイメージだった。

 

しかし言われてみると確かに、権力関係や上下関係がないところで、相手が何か言葉を発したらそのまま従うなら、お互いの意思の尊重ということがおざなりにされていることになる。その時の関係性は、役割の関係性であって「人と人」ではない。

 


お互いに意思や思いのある存在なのだから、相手の意思や思いを受け止め、しかし相手にも自分にも強制を持ち込まないで自分の思いも伝える。すると相手のなかもまた変化する。

 

 

求め自体がお互い違っているので、相手の求めることと自分がすることは一致しないかもしれないが、そこに強制と役割を持ち込まなければ、心は納得し調和に向かう。その時調和とは閉じた既知の場所にあるのではなく、今までお互いに居なかった第三の場所に行くことである気がする。

 

 

ただのスローガンでなく、「人と人」で話すということがどういうことなのかよく考えてなかったなと思った。自分の気持ちや思いは下げて、相手の言うことにただ従うのがいいというようになっていた。この時は上下関係を持ち込んでいるから、「人と人」ではない。

 

 

「人と人」であることは、どちらが自分をすぐに押し下げることをしていては成り立たない。その時は自分に強制を強いているから。役割を持ち込まず、相手に強制しないだけでなく、自分にも強制しないことを両立させたときそこに流れる関係性は「人と人」としてのものになる。一方だけではなく、お互いが自律的であることも「人と人」となるための必要条件だ。

 

 

個の尊重というときに、自分にも強制を持ち込まずにいると関係性はどうなるだろうか。無自覚に相手の要求にただちに従うことがいいことだと思っていたけれど、それは「人と人」を自分からあらかじめ取り下げることだった。与える人と受ける人という上下を自分から作り出す行為だった。

 

 

一方、「人と人」であること、強制や役割をそこに持ち込まず、お互いを自由で自律した意思を持った存在としてやりとりすることが尊重と呼べることであり、それはそれ自体で贈り合いだと考えることができるのだと思った。その時閉じた個は変容していく。

 

 

人と関わること、やりとりすること自体がそもそも贈り合いだと考えるとき、日々のあらゆるやりとりに違った向き合いが生まれてくる。