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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

アズワン・コミュニティ 自分を見るためのコース

→うしおととら →アズワン・コミュニティ

鈴鹿アズワン・コミュニティに月のうち10日ほど滞在している今年。

 

コミュニティの名前を変えようかという話しもあるらしい。鈴鹿コミュニティとか。シンプルでいい感じだと思う。鈴鹿はワンノブゼム、それらの一つみたいな感じで。

 

コミュニティにはスクールというのがあって、コミュニティの人はそこで自己観察のやり方を覚え、自分で自分をみていくことができるようになっていく仕組みで僕も去年から行っている。

 

今回は「自分を見るためのコース」というのに出た。自分におこる感情的な自動反応は、自分がとらえたことと、自分のなかにもともとある、往々にして無自覚な価値判断の基準が掛け算になっておこっている。だから自動反応は、そもそもの自分の捉え方がどうなっているかというのと、もう一つ無自覚で固定化した価値判断基準のどちらかが変われば変化する。

 

合宿形式のコースは7つあって、とりあえず一通りは出たけれど、コミュニティの人たちは繰り返し行っている。

 

 

だがいまだにコースにどのように臨んだらいいかがまだわかっていない。
どうやったらこの時間をより生かせるのか。今いるところから先にすすめていけるのか。

 

思っていることがあっても一旦その場の話しが止むまで待つので、そのままになってしまうことが多い。

 

人の話しをちゃんと最後まできくのも大事だが、場に対しての違和感があったり、「あれ、今どこ行ってるんだろうな」と思うときは間髪入れず表明するのも必要だと思った。

 

でないと、話しが話しをよび5分とか10分とかはすぐたってしまう。

 

もともと言い出すのに勢いや力がいるほうだ。他の人は自分に比べると、臨戦態勢にあるように誰かの言葉のつぎにすぐ話し始められるように感じる。間髪入れずに調整するときはこの臨戦態勢にある必要があるように思った。

 

うしおととら」にセリフがあった。
ーーー

そうすりゃどーなる?

時がただ流れていってどーなる?

乗りてえ風に遅れたヤツは間抜けってんだ

人間に化けてる間に覚えたコトバ…
『祈って待ってれば今にいいコトありマスヨ』…
人間…いいコト教えてやらあ。待ってたっていいコトなんざねえよ
[とら]
ーーー

 

 

http://art44.photozou.jp/pub/18/833018/photo/73389654_624.jpg

 

あらためてとらのセリフを見ても思うが、言い出せないという状態の中身が、べたべたしているなと思った。つまりは場や相手におもねっている。そして相手が自分の話しに終始して時間がなくなったりするとその人のせいでと思ったりする。投げやりさは辞めていかないとはじまらないなと思う。

 

しかし脱線するがマンガでとらの状況は、とらが信心深く騙されやすい老婆に化けていて、それを盗賊か何かが騙して襲うというもの。ストーリー上はとらが正体だから老婆はただの演技なわけだが、これをある状態のたとえとしてみることができる。老婆の抑圧のメカニズムは、過酷な状況の展開によって破綻する。その亀裂から出てくるものがとらという象徴によって現れている。ここで「祈り待つ」ことは、死んだままでいること、止まったままでいること、受け取ったことを歪めること、自己放棄、自己欺瞞にほかならない。

 

西原理恵子のマンガに娘がいる拝み屋がいて、毎日熱心に仏壇みたいなのに祈っているだが娘は家を出て行ってしまうんじゃなかったかな。「50年拝み続けたお返しがこれですか」と拝み屋は突き放され、虚しさのなかで我にかえる。

 

コースのなかで出した事例で、ある知り合いが相手に話しかけるとき、まず絶対わからないようなことを言い、相手がどういうことかききかえすと腰を据えて話しだすということを何回かしていた。僕は話したいんだったら最初からそのように相手にお願いして言い出せばいいのに、相手にきき返させて、訊かれたから話すんだけどというやり方に腹立ちをもっていた。

 

人をコントロールするな、と苛立つ。人はモノじゃないんだから、自分がしたいことをするために人を無理やりにひきずりこむな、と思う。自分がやられても腹が立つが、人にやっているのを見ても腹が立っていた。

 

だが、自分の言い出さない、言い出せないというのは、背景は結局コントロールしようという動機があるわけだ。そしてそのしょうもないコントロールが効かなかったらその人のせいにして被害者になるとは都合がいい。被害者になるように待ち受けているから被害者になる。

 

このからくりは、自己否定感とつながっていて、単に積極的にコントロールしようということではなくて、状況が(悪い方に)変化する恐れているということがある。自分が働きかけると状況が悪い方向にいってしまうという信じこみが奥にある。自分は状況や人の気持ちが把握できないから選択は間違うという恐れ、状況が動くと自分では対応できなくなるという恐れ、自分は自分のことをそのまま言う価値がないという自己観がある。

 

そこらへんを含めてどういうアプローチが有効なのか。単に言い出しはじめてそのメカニズムを破綻させればいいという話しか。いずれにせよ、そちらの方向ににじり寄っていかないと、言えない→不満・自己無価値観の増大という悪循環になる。

 

今回のコースで流れが何かあらぬ方向行ってるな(勝手な自己認識。)、という折々に戻してくれる方がいた。自分は自己放棄的でほとんどそういうことをしてなかった。自分を主語とした誠実で率直な、勇気あるあり方だなと思った。

 

自分を見るということで、自分の事例を見ていくことをすると思っていたが、見たのはその場の人への自分の関わり方だったように思う。細かくみれるようになるというより、まずは自分の人への向き合い方、人といる場でのあり方のほうが先であって、今回はそれを見たのかなと思う。