降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

選挙 「防衛反応」に対するアプローチ

選挙があって、低投票率だった。投票しないのはなぜなのかと考えるときに、僕は一つは自治意識が疎外されているからだと思う。


自分の直接感じることにしか適切に反応できないというのは、普通の状態であると思う。国という抽象的なものに対して訓練もなしに適切にとらえることは誰もできないと思うが、そこに意識を通し働きかける主体になるためには、まず自分の周りのものを自分で直接働きかけて自分で自分の暮らしをつくっているという感覚をもつ必要があると考える。


自分が考えなくても働きかけなくても、お金さえあれば暮らしの基盤をつくるのは誰かがやってくれるという状態がそもそも疎外状況なのだ。考えなくてもいいということは、無関心になるということであり、無責任になるということ。


国家というのはそもそも権力者が自分たちのためにつくったもので、王政などの権力の一部を力で奪いとった市民がその力のつなひきをやめればいつでも初期状態に近づき戻っていく。

 

自治意識が人を健全にすると考える。歯車の一部でしかない存在にされたときに、自治意識は放棄されている。そのとき無責任無関心は当然の帰結だ。

 

そういう意味では、国の規模が大きければ大きいほど人は自治意識を奪われやすいだろう。小さな単位が独立し自立しているとき、人は世界全てに対峙し、責任をもっているもともとの状態だ。ところが大きいシステムはそれを奪う。

 

大きいことの合理性というのは、つまるところ力やエネルギーを集中させること以外に何かあるのだろうか? 僕は知らない。そして力を集中させて実質得をしているのは、力をもっている者、支配する側のほうだ。

 


まずは小さく自立すること。別にストイックに今あるものの使用を否定することはない。二重にすればいい。大きなシステムがありながら、同時に自分たちの小さな自立圏をつくり重ねる。ちょっと経済が変になれば連鎖的に全員困窮するという状態から脱する。その状態を完全に達成しきらなくても、自分たちの力でできることを増していくということ自体が生の充実と人の健全さを派生させていくことが感じられるだろう。世界を自分たちのほうに取り戻しているその状態、その感覚が人に自信と充実を与える。

 

遠いのはわかっているが、遠いかどうかを問題にするときは、それが苦痛だということが前提にある。充実していく道をいく。ただそれだけでいい。そして充実は世界から生きる主導権を自分たちのほうに取り戻していくところにある。完成したときに初めて得られるようなものは相手にせずに過程からして充実するものをやっていく。その時々のゴールは過程を充実させるために設定する。

 

社会がここまで来ている状況を鑑みれば、たとえば今回の選挙だけ野党が大勝したとしても、それが持続的に社会を良く変えていけるだろうか。個々人が自治意識を取り戻し、必要なものは自分たちの関係性のなかでつくりだすというところに戻らなければ、圧力に怯え、自分が世界に対峙するということを奪われた無責任で無関心で考えない個人がその潜在的不安とルサンチマンを利用され、いいように扇動されて自己破滅的方向に雪崩打つだけなのではないか。

 

ところで僕はいつもあるドッグトレーナーの言葉を思い出すのだけれど、そのドッグトレーナーはこう言っていた。

 

「犬はしっかりとしたリーダーを求めている。もしリーダーが頼りないと犬は不安のあまり自分がリーダーになろうとする。」

 

犬にとってリーダーになろうとすることは、不安に対する防衛反応だというわけだ。
この防衛反応という視点から現在の状況を見ることはできないだろうか。健全な状態の個々人の自由意志であるよりも、個々人の防衛反応が社会のこの状況をつくっていると。その場合だと、単純に多くの人に理性的な判断を求め続けることの効果はあまり高くない。理性的な選択とは、防衛反応に走らなくてもよい状態の個人が自然にとるものであるのかもしれない。防衛反応のなかにいる個人にいくら理性的な判断を求めても防衛反応を強めるだけになってしまう。それは北風アブローチなのだ。旅人はより重装備になる。

 

僕は、個々人が防衛反応に走らなくてもいい状態を先につくるということがこの状況に対する根本的な向き合いであると思う。

 

集団のなかにいなければ不安、同じでなければ不都合な目を受ける、自分の意見や気持ちを言いだせない等という、周りでごく当たり前に見受けられる反応は、既に防衛反応だと考える。どんなに多くそういう人がいたとしても、それは「普通」なのではなく疎外状況にいると僕は考える。言ってみれば疎外状況が多すぎてそれがニュートラルだと錯覚されているのが現代ではないか。

 

そこに向き合うことが必要なのだと思う。上記にあげたような防衛反応をしなくてもいい状態をつくり上げていく。同質集団でまとまるということが既に防衛反応だと感じられるようになるぐらいに。もし個々人がそれぞれを個として尊重している環境があれば、さらに同質性にすがる必要があるだろうか? 同質性にすがるのは揺り動かされ自分を失ってしまう強い不安がどこかにあるからではないだろうか。

 

人はそれぞれ違う。だがそれがなかなか認められない。好きで一緒になり、多くの時間を過ごしたパートナーとでさえお互いを自分とは全く別の文化や前提をもつ個であるとして尊重することができない。

 

ここが足元ではないだろうか。周りの人との関係性を成熟させていく力をそれぞれの人がもつ。そのことによって、ようやく個人というものは尊重され、大切にされる。これは個々人が、精神的に自立していくということでもあるが、関係性を成熟させていくということでもある。

 

個人が同質集団の一人ではなく、その人として大切されるという環境が作られる必要がある。選挙のときだけ一斉に投票してと周りに呼びかけるのは仕方がなくても、場当たりのものであって対症療法であると思う。呼びかけ方も「Aしてください。でなければBになります。」的なかたちにどうしてもなってしまう。そういう言われ方は、人は本来抵抗があると思う。

 

人に言われたから行くとか、ある人が頑張ったから行くとかは、直接的な働きかけやプレッシャーがかかっているからいってるわけで、それが一番いい状態なわけでは全くない。問題とすべきは、自分で世界を調整しようとする感覚や自信を失っていることだ。そこを回復しなければいけない。

 

どうやって回復していくのか。それはすぐ横の人、すぐ周りの人の関係性を質的に成熟させていくことだと思う。個々の人がそれぞれの意見や気持ちを表現することができるようになっていくことだと思う。

 

関係性を成熟させていくためには、対話ができる個々人になりあっていくことが必要になる。対話とはまず、同じ前提を共有しない他者と他者の間でおこるもの。そしてそれはどちらかが一方的に相手を変えるようなことではなく、互いを変えるもの。対話がおこったあとには何かが破綻していてもう後戻りはしない。

 

「どうして私はこうしているのにあなたはこうしないの!」となるのは、相手が自分と同じであることが前提になっている。もし相手と自分が全く違うなら自分がそうだからといって相手に怒りをもつことがない。

 

対話は実はすぐやろうとしてもできない。オープン・マインドでやろうとか言っても小手先の態度ではできない。上の例であれば、相手を認めようとしていても「こうすべき」という自分の前提が相手に押しつけられると頭のなかでなっているため、自動的に怒りが生まれ、それに大きく影響されるからだ。

 

対話ができるお互いになっていくということは、この無意識の前提や決めつけ、押しつけに気づいていくというプロセスを抜きには成り立たない。世間でも対話をすればいいとよくいわれているように感じるのだが、こうしようとかいう一時的な態度では対話は成り立たない。継続的な自分自身の思い込みに気づいていく過程が含まれていて初めて対話なのだと思う。

 

対話をスローガンのように受け取らず、思い込みを破綻させていくという実際の過程を含むものと捉え直す必要がある。そして対話がどのようにしたらおこりうるのか、それを発見し、蓄積していく必要がある。

 

僕が鈴鹿アズワンコミュニティに行っているのは、ここでは一度起きてしまった対立の危機を乗り越え、対話できるお互い、話しあいのできるお互いになる仕組みをつくりあげ、それが功を奏している実態があるためだ。対話しようとしても出来ないのがよくあるパターンだが、ある程度の規模がある単位で対話ができるようになる事例を僕は他に知らなかった。

 

対話とは何か。そしてどのようにしたら実際に対話ができるようになるお互いになるのか。スローガンではなく、本当にこれをやって進めていくことがこの状況に対する向き合いであると僕は思う。

 

対話については、斎藤環さんが書いた「オープン・ダイアローグとは何か」で興味深い事例が紹介されている。オープン・ダイアローグを実践している病院では、対話の研修をスタッフ全員が受けている。そして全員が対話できる状態になっているその派生的な効果として、役割による上下関係が薄れていき、誰かが仕事を抜けると一声いえば全員が有機的に動きそれを補える即興性が生まれているという。これは、対話の持つ関係性の正常化の力の例だ。

 

対話ができる関係性になるには、対話とは何かを実際に学び理解する過程が必要だ。対話は妥協点をみつけることが目的でもなく、相手を説得することが目的でもなくて、お互いのなかの思い込みを破綻させ、互いが実際に変化していくのが目的だ。対話ができるお互いになっていくことは、相手と自分を尊重するとはどういことなのかということを学んでいくことでもある。

 

互いを全く違った文化をもった個として尊重できあうようになっていくとき、そこには安心や信頼が生まれてくる。それが人と人との関係性や協働をさらに柔軟に自由にしていく。そのとき、同質性にすがる防衛反応は薄れていき、世界を自分で調整していく態度が生まれてくる。

 

それは終着点ではなく、プロセスだ。お互いがだんだんと対話できる関係性になっていくプロセスに入ること。「終着点」にたどり着くことであるよりも、過程を自分のものとして手に入れること。これが本当に社会が変わることを求めるときに必要な向き合いなのだと僕は思っている。