降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

死の話しをシェアする場は優しい

シーカヤックで海上散骨の仕事をされている方のお話しを聞かせてもらう機会があった。


死の話しをシェアする場は優しい。本当はこんなふうに思っていたんだ、感じていたんだということが自然と話される。それは聞いている人もまきこんでこわばり、停止まっていた心の律動を蘇らせるように感じる。

 

死ということを生きているものの間に置くとき、生は相対化される。生は、生の絶対化によって疎外されている。生きるという責任を人間は本当には負いきれない。生を背負うことは人間の身に余る。死はそのことを認める契機をくれるものだ。

 

生は自分のものではなく通りすぎていくエネルギー。生の主体はエネルギーの流れであって、自意識ではない。もののけ姫のシシ神が触れたものが生を得て、そして枯れていくように、エネルギーそれ自体が一時的に媒体をまとうのだ。

 

自意識というのは幽霊のようなものだと思っている。だから弔いが必要なのだ。死者に対して弔いをしているのではなく、死者にむけているようで生きていることを弔っている。死者の弔いによって救われていくのはここで生きているものたちだ。

 

死を大切にすることは、この生をとむらうことだ。この生のとむらいこそを心は必要としている。一生をかけて人はその生を弔おうとする。それがいわゆるその人の「やりたいこと」なのだと僕は考えている。