降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

セラピーでも、自己啓発でも、信仰でもなく。

内観に行くというと、何で行くのと聞かれることがある。今日もきかれた。

 

内観は、内観療法とも呼ばれ浄土真宗の修行方に着想を得て、吉本伊信が確立した観察法。身近な人について、してもらったこと、して返したこと、迷惑をかけたことの三点からみることをきっかけに幼年期から現在までを見直す。幼年期や青年期の体験を現在の大人の視点から見直すことにより自動的な感情の反応を引き起こしているような出来事の見方や感じ方が変わる。

 

内観療法 - Wikipedia

 

何でと訊かれるのも全くわからないこともない。「普通の人」は問題がない限りそういう自分を振り返るとか見つめるとかいうことはしないというのが一般の感覚なのだろう。

 

自分に問題がないといわないけれど、「普通の人」は小さいころから生きてきて自分がピンボール台の内部みたいに自動的反応や反射のかたまりになっていることには気づかないだろうか、と思う。

 

自然状態で生きていたら人は30歳とか40歳が寿命なのだとしたら、デフォルトの状態では人は「一旦身につけた反応の仕方は変わらないまま生を終える」感じなのではと推測する。一度身につけたものを解きほぐす仕組みは自然状態ではほぼカバーされていないのではないか。

 

それが自然状態じゃなくなって長寿になるとき、想定されていない事態がおこる。一度身につけたことが長く生きる際には不都合になっていったり、高コストになってくるのだ。その対応には、文化的にその状態に介入することが必要になってくると思う。デフォルトではたぶん想定外だから放っておいても変わらない。

 

こどもが大人をみたら、いっつも同じ反応だな、それぞれ違うことを退屈な感じでまとめてしまうなと感じるのではないかと思うのだけれど、ある程度きたら人はパターン化した反応の体系としてできあがってしまう。そこからは身体化したことを解きほぐし、そのパターンから脱していくということが質の違う開けを生んでいくと思う。

 

ところで僕はあんまり心というものを特別視することに興味がない。自意識が働きかけてできることなどそんな大したことじゃないと思うし、無意識とは、自意識が直接的には全く関与できないから無意識なのであって、そこを自意識で直接コントロールしようとか、感じようとかすることに意味がないと考えている。

 

無意識はそもそも相手にできないのだから、相手にするのはどこかというと、やはり自意識のほうだ。自意識のあり方が問題や何らかの阻害をおこす。自然でニュートラルな状態、自律的に整うプロセスを強制的に止め、邪魔し干渉するのは自意識だ。その邪魔のあり方、干渉のあり方を理解し害を相殺するということはできると考える。

 

もともとの自然ではなく、生後に構造化された心というのは、パソコンみたいなものだと思う。オペレーションシステム(OS)があって、アプリケーションがインストールされている。OS(=自意識)は同じことの繰り返しであってすぐ古くなる。生まれてからランダムにいれられたアプリケーションはメモリを余計に食って動作を遅くさせ、またアプリケーション間で不和をおこす。問題をおこしているのに気づけば整理したり、取り除く。

 

人とコンピュータが大きく違うのは、OSがアップデートするときだと思う。OSのほうは人が一から十まで考えて全部つくらないといけない。ところが、人のほうはOSが健全に破綻していくと自律的に次が生まれてくる。健康的に今あるOS(=閉じた思考とそれに紐付けられた反応の体系)を破綻させることが生産的であり、面白い。

 

このように、ある意味自分で自分を破綻させていくという倒錯のようなことをするのは、この自意識が文化的に構成されているものだからだと思う。文化的に作られたものは文化的なケアが必要であり、ほっとくと詰まりと滞りを派生させていく。一度人間が手を入れた人工林は継続的に人間がケアしないと荒れていく。心についてもまた同じだろうというのが僕の見方だ。

 

エネルギーが循環していることが生きていることだとする。その循環は自律的だ。何も考えなくても負担があればそれを避けるという動きが生きものには備わっている。より循環がいい状態になることを体は求める。循環は自律的にいい方向に向かう傾向をもっている。

 

体も心も大きくはこの自律的循環に従う。だから僕は自意識ではなく、循環が生きる主体であると思っている。自意識は過去を使ってしか考えられないし、過去を通してしかものを見ることができない。だが循環は自意識がそのような状態でも変化させていく力がある。

 

循環をできるだけ最適な状態にすることで、心にどれだけの恩恵がくるだろうか。生きているだけで自動的にインストールされ、心のなかで勝手に常駐して働いている余計なアプリだらけなのが普通の人の状態だと僕は思う。だからデフラグとか、アプリの削除とか、OSの更新が普通に必要だと思う。

 

それは掃除のようなケアだ。心は一時的な大きい快を求めているように錯覚されているが、実際は整うことを求めていると思う。大きい快は感じていることの麻痺に使われるだけだ。感じていることは麻痺によってではなく、そもそもの不快を取り除くだけで満足はやってくる。

 

セラピーとしてではなく、自己啓発としてでもなく、信仰によるものでもなく、自意識の掃除作業が普通の概念として位置づけられたらいいなと思う。


 

内観への招待―愛情の再発見と自己洞察のすすめ

内観への招待―愛情の再発見と自己洞察のすすめ