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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

他者としての自然

人は地球の自然のなかで生まれてきて、人工物も自然の加工にすぎないのなら自然に全て依存している。自然は生きものを育んできたが、宇宙からみたら、地球の自然のなかにいるものは外から意思を持った誰かに守られているわけでも、滅びないように予定されているわけでもない。

 


生命の発生という、勝手におこったことが展開したけれど、その展開には保証がなく、ゴールがあるわけでもない。いってもみれば存在としての生きものは、今のように産み捨てられて圧倒的に放って置かれている。全ての恵みを与えてくれる母なる自然は同時に全くの他者としての自然でもあって、後者をあえて擬人化してみたら、滅ぶのも含めてどうにでもなるようになれば?別に関係ないし、という感じだ。

 

理性があれば人は自分たちの活動による自滅から身を守れるかというと、それは希望や願いであって、それも何の保証もされてない。地球の自然にできるだけ従えばいいというのは、予想できる範囲で滅びをより緩やかなものとしようとする緩和策・延命策なのであって、生きるという問題の根本的な解決策ではない。そもそも根本的な解決というような考えがそぐわないけれど。

 

どんなに素晴らしい延命策が提案されたとしても、突き詰めたところで、こうすればいいというのはない。そこに自由の根拠があると思う。純粋な間違いはもう一方に純粋な正しさがないと存在しない。究極的にはどのようであっても赦されているというのは、生きものを包みこむ自然が全くの他者であることによると思う。

 


思うような未来がこないことへの自暴自棄は、未来を取引の対象としてとらえ、取引の代価を払い続けている現在への反動として現れる。調和を「熱」望することのなかには、何かの無視や抑圧がある。高揚をたきつけて自分や人に何かさせることは、無自覚な分だけ暴力性が高い。

 

生きることのもともとの保証のなさ、方向性の持てなさを受け入れることのほうが、結局は現実的に、人にやさしくなるだろうし、自暴自棄になることもないと思う。生きることのささやかさに戻るとき、失うようなものはそもそも持ってもおらず、それにも関わらず与えられたものが感じられてくるのではないだろうか。