降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

6/4「はなす」@本町エスコーラ

6月4日(土)の16時半から東山区の本町エスコーラで対話の試行をします。

もうすぐですが、関心ある方はお知らせください。

 

生活から離れた抽象的な議論ではなく、かといって雑談でも世間話でもなく、セラピーでもなく、日常と自分に根ざしながら、世界との関わり、人との関わりの質を変えていくこと。認識の仕方が変われば体験は変わる。対話は、教えたり諭したりするのではなく、相手を別の状況で生きている自分であるように尊重し、贈り物をしあうように、世界と自分の間にあるものを共同で明らかにしていく行為だと思います。

 

対話とは相手をやりこめることでも、自分が優位にたつことでもなく、相手に背中を預けて、その背中を相手の目から伝えてもらうようなことだと思います。どちらかがやりこめるようなあり方でいるならば、話す前から終わっている。そこでは価値あるようなことはおこりません。

 

曖昧なものをそのまま出せるときに、認識の更新、体験の更新はおこっていくと思います。その意味で、対話ができるようになるということは、個としての相手の自律性を認め、尊重できるようになっていくことを常に伴います。

 

心とは何かを理解するというような大げさなことではなく、自分のなかに蓄積されてきた認識の仕方をクリアにし、掃除していく。断捨離、という言葉を時々みかけますが、自分にとって必要なもの、必要でないものを再吟味にかけて、捨て、整理していくことは、そのまま自分の内部の認識と現実を再吟味し、更新していく作業です。

 

対話は、何かモノを捨てるわけではないですが、曖昧なままに自分のうちに滞留し、くぐもりを作っている認識の断捨離といえるかもしれないと思います。素晴らしい認識にたどり着く必要はなく、ただ実際として滞りを作っている認識を明らかにし、順々に取っていけば十分です。

 

個人的な話しをすると僕が目指したいのは、いわば対話環境の自給です。どこかにいる先生や専門家に扱ってもらったりしないと認識の断捨離ができない依存状態・停滞状態から、関わる周りとともに対話できるお互いになっていくと世界は新鮮さを取り戻すと思います。心の通りが悪くなり、新鮮さを失うのは、世界ではなく、古くなった認識のほうの問題なので。