降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

派生するものと引き換えるもの

出町柳にあるパン屋さんのインタビューで、どうしてパン屋をやろうとしたのですかという質問に対して、正確な表現は忘れたけれど、戦後の食料事情が悪い状況でもパン屋ならパンを食べれるから、という答えがされていたと記憶している。


自給の考えだと思う。自分が作る側になれば、そのものはある程度潤沢に確保できる。パン屋をしていれば派生的にパンは入ってくる。


そしてこの「派生的」ということもとても大事だと思っている。特に心にとって。派生的なものに対しては直接自分がコントロールしているという感覚が低くなるため、そのものに関してのストレスや疲れが低くなる。派生的なものは、感覚としては、贈りものとして感じられる。心はギブアンドテイクによって得られた当然のものによってではなく、贈りものによって満たされていく。


直接コントロールすることには、常に自分が関わる。自分がどうだったか、自分が成功したのか、失敗したのか。結果に対し自分が問われ、結果と自分が同一視されやすい。特に繊細なものに関わるときは、この自分がやっているという圧が邪魔をして、結果的なパフォーマンスがむしろ下がる。本当に結果を追求するなら、自意識の余計な圧にいかに邪魔させないかということが大事になり、自分でも気づかずにやれるような設定でことに向かえる工夫がいる。


ホタルが帰ってくるようにとそれを目的にして川を綺麗にしてもいいだろうけど、さらに工夫するならば、別にホタルとかではなく楽しく掃除ができる設定があれば、ホタルはエネルギーのギブアンドテイクや自意識のコントロールの結果ではなく、贈りものとして派生してくる。その時のほうが多分嬉しいだろう。自然条件は複雑なのだから人がなんかやったからといって必ず求める結果が生まれるわけではない。しんどい思いをしたのにホタルはかえってこない、というのが疲れる。


先の投稿で対話について書いたけれども、僕は対話の場を自給したいと思っている。生物は一度取り入れたものの見方を固定化する傾向を持っている。「自分らしさの檻のなかで」ではないけれども、それを掃除していくもの、取り去り更新していく文化的仕組みが必要なのだと思う。その掃除の仕組みが対話ということになるだろうと思っている。そしてそこから派生していくものは贈りものとして受けとられるだろう。