降りていくブログ 

ここという閉塞から逸脱していくための考察

インプロ集中ワークショップ

インプロ集中ワークショップ、毎回レポートあげようと思っていたけど、夜に宿に着くともう眠い。


見る/見られるワーク、触る/触られるワークで思ったこと。こちらが主体的に何かを「見る」ときと、その何かに「見られる」と感じる感覚にスイッチすると何がおこるか。ワークは今日は20人弱でそれぞれの感じ方の違いはあれど、僕が思ったのは、感性的なことは自然のものだと思ってしまいそうで、実は言葉が大きく決定しているところ。


このワークであらためて認識の構造はかなり言葉の構造によるものなのだと思った。同じ人や物体に対し、自分が見るつもりで向かうときと、その同じものから見られると思ってみるのでは、感じ方が違うのだ。


モノを見るときは、こちらが相手を押す感じがある。一方、見られるときは、そのモノに対して一旦生命があり、主体があるかのように投げかけないと「見られる」というふうに感じることは成り立たない。そのように投げかけると、まず主体が奪われる感じがある。自分ではなく、対象てあるモノが主体であって、自分が何故か無力に感じる。モノから何か圧迫や押されている感じを受ける。


何がこの圧迫や押しなのか、その理由は?と意識が向く。すると対象であるモノの何らかの特性がその理由づけにふさわしいように感じられる。実際にはモノにはこちらが考える意識はないのだから、モノから感じられるものは自分の投影したものだ。


自分が圧迫される、押されるものとは何だろうかというところから、押されるもの、圧迫されるものが心からピックアップされてくる。そしてそのピックアップされたものがモノの主張となり、自分に対して迫ってくるように感じられる。順番的にはおそらく押しや圧迫のほうが先なのだが、認識としては、そのモノがそのような意味を持った主張をこちらに対してしてくるから圧を感じるのだと錯誤的に認識される。


たとえ対象がモノであってもこの感覚がおこるということは、つまりこれは「見られる」という言葉が引き起こす錯覚、幻想のリアリティなのだと思う。言葉というフィルターを通して世界を見るとき、その言葉のフィルターが引き起こしていることが現実だと錯覚してしまう。


このワークショップの場のディレクターの純さんが、ある話しを紹介する。事件の目撃者に聞き取りを行い、犯人の特徴を言葉にしてもらった後に犯人の写真を見せるのと、特徴など聞かず最初から写真を見せて誰かと訊くのでは、言葉にせず最初から写真を見せられたほうが正答率が上がるそうだ。特徴を言葉にしたほうは、言葉によって記憶が上書きされ、その上書きされたものに適合するイメージを選ぶ傾向を持ってしまうという。


言葉というのは本当に何なのだろうなと思う。見る/見られる、する/されるなど言葉によってどちらかだけしかないように受け取られ、しかも本来分けられてない状態だったものが非常に貧しく、時に倒錯すらして経験されてしまう。


「見る」「やる」というときは、主体的だからいいだろうと最初は思っていたのだけれど、「見る」とき「やる」ときには、別の疎外、別の貧しさがあるのが感じられた。「見る」とき「やる」ときの受け取り、認識もまた実際の現実に対して変なフィルターが入っていて、変な受け取りになる。そうならざるを得ない。僕のワークの体験では、この自分が「見る」「やる」として現実をとらえるとき、何かつまらないという感じがあった。


しかし「見られる」「される」については、そもそもそういう状態が実際にあるのかという疑念が湧いてきた。言葉上であるというだけで、リアリティを持ち感情に影響をもたらしてくるという、害だけあるような幻想だ。


主体的という言葉もおかしい言葉で、そもそも分けたらおかしくなるものを分けてこの言葉ができている。他と切り離し自分が独立している状態で「主体的」ということが本当にあるだろうか?いずれにしても「主体的」というこの言葉のせいで、「主体的」に動いた後の認識や体験は偏りを持って体験されることには変わりがない。