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降りていくブログ

生き残りながら回復していくために

働きかけることと受けること

武術家で心理士でもある田代順さんに鈴鹿で来月末にオープンダイアローグやリフレクティングプロセスなど複数の対話の手法の要素を組み合わせた場をやってもらう。


それぞれの手法を組み合わせたのは現場で効果的に機能させるためだろうけれど、それぞれの独立した手法を自分の求めのために工夫していく。このようにまだないもののかたちを探り作っていくことを「学び」とはあまり言わないと思う。


学びとは多くの場合は既にあるものを自分が使えるようにするまでのことだったり、同様に既にイメージされた状態に手順にそって到達することを言わないだろうか。だから学びという言葉は聞くということのように、受け方を指したものとして受け取られる。


取り入れることなのだからまあそれは当然といえば当然なのだけど、取り入れる主体がどういうプロセスのなかにあるのかを抜きに、とにかく学びということが大事だから、可能性が広がるからと提示されることが多いような気がする。


もう既に決まった仕組み、価値観のなかで、うまくパフォーマンスをあげるための学びだと今その人におこっているプロセスがまるで無視されている。しかしそういうものが「学び」だとよばれている。言葉の使われ方による誤解、疎外が余計に人から学びを遠ざける。


先に今おこっているプロセスがある。そのプロセスを展開させるために、環境に働きかけ、何らかの媒体を利用する。媒体を自分に取り込むことが学びであると思うけれど、それは今おこっていることの展開のためにある。


外に見えるかたちで展開させるとき「表現」になる。学びも表現もプロセスの展開の一部分を切り取った言葉だと思うのだけれど、言葉上はそれだけが独立しているもののように表されるし、そのように捉えられてしまう。


自分がやりたいという動機の先にしか学びはないのではないのだろうか。受動的に刻み込まれるものを学びという同じ言葉で呼んでいいのだろうか?


必要であるけれどまだおこっていない新しいことを自分におこす。主体的であるときは、同時に戦略的になっている。


必要な新しいものを作っていく。そのときに学びということが適切に位置づけられる。それは必要な自由を作っていくということでもあるだろう。